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『モリー先生との火曜日』を読んで | |||||
ミッチ・アルボム 著 <NHK出版 単行本> | |||||
二年前に加藤健一事務所による芝居で観ていたものの原作(1997年)を読んだ。訳者の別宮貞徳が訳者あとがきで言及していた『「あそび」の哲学』(講談社学術文庫)を読んだのは、まだ二十代の時分だったが、自分のライブ備忘録のほうに二十代時分のことに言及していたこともあって、奇遇を覚えた。 訳者が「モリーも言っている。「この国では一種の洗脳が行われている……物を持つのいいことだ、かねは多いほうがいい。……何もかも多いほうがいい。……それをくり返し口にし……聞かされ……ほかの考えを持たなくなる」。また、「みなまちがったものに価値をおいている。物質的なものを抱きしめて、向こうからもそうされたいと思う。……おかねを神様のように崇める。すべてこの文化の一環だ」。」(P200)と引用している部分は、先ごろ読んだ『年収300万円時代を生き抜く経済学』で森永卓郎が述べていたこととも符合していて面白かった。 「あの頃ぼくは、金持ちは悪者、ワイシャツにネクタイは囚人の服、自由のない人生はろくな人生じゃないと思っていた。……何があったのか? 八〇年代の出来事があり、九〇年代の出来事があった。死と病気、そして腹は出、頭は薄くなり……ぼくはたくさんの夢を次々に金額の上がる給料小切手に取り換えた、何をやっているか気づきもせず。 ところが今モリーは、まるでぼくが長い休暇をとっていただけのように、かつての大学時代と同じ好奇心を見せて問いかける。「誰か心を打ち明けられる人、見つけたかな?」「君のコミュニティーに何か貢献してるかい?」「自分に満足しているかい?」「精一杯人間らしくしているか?」…デトロイトに住んでもう十年になる。…年は三十七歳。大学時代よりはてきぱきと働けて、コンピューターやモデム、携帯電話から離れられなくなっている。…毎日毎日時間はふさがっている。しかし、その多くに満ち足りた気持ちはない。」(P38)と記している著者が「死を人生最後のプロジェクト、生活の中心に据えよう。…ゆっくりと辛抱強く死んでいく私を研究してほしい。」(P17)と臨んだ講義と言うか対話録を読みながら、今回知った些細な部分でのモリーへの共感に笑みが漏れた。 十代の時分に、継母から何になるつもりかと問われ、「弁護士はきらいだから、法律はおことわり。血を見るのがいやだから、医者も願い下げ。…ほかになるものがなくて教師になったのだった。」(P82)、これはミッチーの言葉としても再度現れ、「医者も法律も会社勤めもおことわりのモリーは、研究の世界こそ他人を搾取することなく貢献できる場と思い定めた。」(P112)となっていた。 そんなモリーの残した言葉として僕に最も響いてきたものは以下のものだった。 「人間はあぶないと思うと卑しくなる…それはわれわれの文化のせいだよ。われわれの経済のせい。この経済社会で現に仕事を持っている人でさえ、危険を感じている。その仕事をなくしはしないかと心配なんだ。危険を感じれば、自分のことしか考えなくなる。おかねを神様のように崇め始める。すべてこの文化の一環だよ…逃げ出せばいいってものじゃない。自分なりの文化を創るのがかんじんなんだ。 どこにいたって、われわれ人間の持っている最大の欠点は、目先にとらわれること。先行き自分がどうなるかまで目が届かないんだ。潜在的な可能性に目を注がなければいけない。自分には、どういう可能性があるか、そのすべてに向かって努力しなければいけない。しかし、『今、自分はこれを自分のものにしたい』と言っている人たちの中にばかりいると、とどのつまり、ひとにぎりの人間が何もかも持っていて、貧乏人が立ち上がってそれを盗んだりしないように、軍隊まで備えるってことになってしまう」(P156~P158) | |||||
by ヤマ '15. 5.17. NHK出版 単行本 | |||||
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