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『十戒』(The Ten Commandments)['56] | |||||
監督 セシル・B・デミル
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先ごろ『マーベリックの黄金』で不遜キャラのよく似合うユル・ブリンナーを観たものだから、彼がエジプト王ラムセスを演じて、モーゼ(チャールトン・ヘストン)に完敗する本作を観ることにしたものだ。'80年に土電ホールで観て以来だから、四十三年ぶりになる。 旧約聖書の物語であることが示され、「神が“光あれ”と言われると光が生まれた」とのナレーションが流れて「…ヘブライ人はエジプトで重い労役を課せられ、惨めな暮らしを強いられた。彼らの悲痛な叫びを聞かされた神は、あるヘブライ人の夫婦に恵みを授けられた。大いなる使命を持つ男児の誕生である。彼は神の“契約”を交わす者として巨大な王国に立ち向かうことになる。」として始まる物語だ。驚くほどの色鮮やかさとともに、七十年近く前の映画の壮観なスケール感に溢れた画面に瞠目させられた。 旧約聖書に記された物語を踏まえながらも、劇中の登場人物には実に現代的な人物造形が施されていて、とりわけ女性たちが印象深い。兄王セティ(セドリック・ハードウィック)の出した命に逆らって、ヘブライ人の捨て子を王子として養育するビシア(ニナ・フォック)の動機が夫を亡くした失意から赤ん坊を欲した我執であったり、新王の后となる宿命にあるネフェルタリ(アン・バクスター)が、王位を狙う嫡男ラムセスよりもセティが甥として寵愛しているモーゼへの想いを実に率直に露わにするばかりか、ラムセスと結婚することになっても、一向にそれを潜めたりしない靭さを保ちながら、追放された後、再びエジプトに戻ってきたモーゼの元を訪ねて袖にされたことのほうが、ラムセスとの間の息子を死なせたこと以上の強い動機になって、モーゼの死を夫に求めるような猛女だったり、想いを寄せる石工のヨシュア(ジョン・デレク)の助命のために、奴隷監督からモーゼの秘密を売って総督になったヘブライ人ダタン(エドワード・G・ロビンソン)の囲われ者になったリリア(デブラ・パジェット)が、そのことを自らの課した自己選択として長い月日においても揺るがせなかったりする自我の強さがなかなか強烈だった。 それにしても、イスラエルの民の救済ということからすれば、確かにネフェルタリがモーゼに囁いたように、王位に就いて彼女と結婚して己が施策として奴隷解放することのほうが遥かに合理性があるわけで、モーゼが王位継承権を棄て、奴隷となり、追放された後に羊飼いになる顛末が何とも苦しくなる設定ではあった。 モーゼはイスラエルの民の救世主ということになっているが、彼をヘブライ人が四百年待った救世主だと信じて疑わないヨシュアが、羊飼いの族長の娘セフォラ(イヴォンヌ・デ・カーロ)との間に子も為して慎ましく暮らしていたモーゼを訪ねてこなければ、神の山シナイ山に登り、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」の声を聞くこともなく、ヘブライ人の出エジプトは起こらなかったことになるという物語展開だったように思う。イスラエルの民にしても、出エジプト後、モーゼがシナイ山に籠って一向に降りてこない間にダタンの扇動に乗せられて愚行に耽った自業自得によって四十年も放浪の旅を課せられていたのだから、エジプトでモーゼが王に就いて奴隷解放策を講じてくれたほうがよほど救いになったに違いないはずだ。 だから、モーゼはユダヤの民の救世主と言うよりは、終盤で奇しくもラムセスが妻ネフェルタリに零していたように、ラムセスの疫病神という感のほうが強い。叔母が気紛れでモーゼを拾い育てたりしなければ、父王が彼を贔屓し、自分の王位継承権を脅かすことも無かったろうし、ネフェルタリからモーゼの血を求められなければ、ユダヤの民の出エジプトに対し、追討軍を差し向けて割れた海の波に呑まれてしまう惨敗を喫することもなかったはずだ。 だが、そのような人間ドラマとしてあったからこそ、本作は単なるスペクタクル映画に留まらぬ面白さがあるのであって、羊飼いの族長エトロの七人娘のうちの妹六人の艶やかな舞の場面といい、随所にエンタメ作品としての工夫が凝らされていて、実に見栄えのする映画だったように思う。 ところで、老いたモーゼは、ヨシュアに後継指名をして去って行ったが、セフォラとの間に生まれていた男の子は、どうなったのだろう。ネフェルタリがモーゼと二人きりになるために母子で逃がしていたから、少なくともラムセスの差し向けた兵士の手に係ったりはしていないはずなのだが、その後、いっこうに姿を現さなかったような気がする。 | |||||
by ヤマ '23.11.16. BSプレミアム録画 | |||||
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