『パピヨン』(Papillon)['73]
『ローマの休日』(Roman Holiday)['53]
監督 フランクリン・J・シャフナー
監督 ウィリアム・ワイラー

 両作の脚本を担ったトランボ自身にとって切実だった“希求する自由への想い”を描いて、実に対照的な作風の二本が合評会の課題作として挙がった。アン王女(オードリー・ヘプバーン)の求めた自由とパピヨン(スティーヴ・マックィーン)の求めた自由には大きな開きがあるようでいて、その切実さと掛け替えのなさにおいて通底するものが感じられたように思う。本来なら、先に撮られたローマの休日から観るところながら、二年前に再見したばかりであることから、半世紀前の公開時以来となる『パピヨン』の観賞を先にした。

 圧巻の独房場面は鮮烈に記憶に残っていたが、インディオの村での夢幻のような生活の場面は、記憶から飛んでいた。修道院長による真珠猫糞のための告発場面を観て、確かにそう言えば、と思い出した。命懸けで脱獄を試みるパピヨンに手を差し伸べるのは、囚人仲間のほかには懶病患者のコロニーの住人かインディオのみで、いわゆる文明化された暮らしを営む人々は、狡賢さから逃れられないとされている点が目を惹いた。脚本を担った一人であるダルトン・トランボが赤狩りによって迫害を受け、書く自由を奪われていた時代に身に沁みて味わっていたことなのだろう。

 パピヨンが最初に課せられた二年の独房生活のなかで、殺人罪は冤罪だが、本当の罪は人生を無駄にしていることだと夢で苛まれていたように思うが、それこそが当時のトランボの苦衷そのものだったのだろう。六年前に観たトランボ ハリウッドに最も嫌われた男['15]にも、汚名を着せられることよりも、書けなくされることへの憤りと苦しさが描かれていたような覚えがある。

 それにしても、パピヨンが連中はお前を手放さないぜと言っていたルイ・ドガ(ダスティン・ホフマン)の尽きないカネの出所は何だったのだろう。それほどに裕福なら何も偽債権作りに手を染める必要はないのであって、現金を彼へ届ける手立ての件と併せて、何とも腑に落ちないところがあった。

 奴は自分のことを命懸けで助けてくれた、生まれて初めての男だと言っていたドガが、二年の独房暮らしでも口を割らなかったパピヨンに再会して感無量になる場面の表情が印象深い。ドガの名前を言わないままに独房から生きて出てきたパピヨンに対してやぁパピと抱き寄せ、涙ぐんでいた。パピヨンが二度目の独房生活を五年続け、いよいよ悪魔島送りになって再会した場面との対照が効いていたように思う。

 最初の独房から生還してきて、ようやく回復したパピヨンに白状してればこんな目には…と言ったドガに対してしかけたと応え、誘惑に勝てるかどうかで人間の真価が決まると続けていた彼にいいか、お前は俺に借りはないと言っていたのは、パピヨンの心のなかには、耐えかねてドガの名前を言ってしまおうと自分から所長を呼びながら、彼の傲岸な顔を見るや困ったことに名前は知っていたが、ぼけちまって思い出せないと言ったときドガを守るためという思いなど微塵もなく、ひたすら所長への憤慨と対抗心だったことが身に沁みていたからなのだろう。そして、それは赤狩りによって召喚されたマッカーシー委員会とも言うべき体たらくに陥った下院非米活動委員会で証言を拒み、後にハリウッド・テンの一員として称えられたトランボ自身の真情で、本作においてトランボが最も書きたかった台詞だったのではなかろうかという気がした。

 悪魔島で再会したときのドガは、三年で釈放される算段をしていた目論見が破れ、骨折まで負う脱獄に加わる成行きになった挙句、妻にも棄てられ悪魔島送りになった疫病神とも言えるパピヨンとの再会に逃げ出しつつも、その顛末自体において何ら責のないパピヨンへの対し方に戸惑っているように映った。そして、不屈の信念で島からの脱出を試み、断崖から海へと飛び込んだパピヨンが沖へは出られないはずの波に逆らって大海に乗り出していく姿を涙目で追う名高い場面が沁みてきた。

 公開時に観た際は、トランボについて今ほどには知らなかったせいか、少々冗長に感じた作品だったが、今となれば、それも彼らの味わった長い刑期に沿わせるものだったのかもしれないと思う。余りにも非人間的なサン・ローラン刑務所は、程なく閉鎖されたとのことだったが、1930年代の刑務所とさして変わらぬとさえ思われる非道がアブグレイブだったり、我が国の入国者収容所だったりで今なお繰り返されていることに、暗澹たる気分を誘われた。


 続いて観たローマの休日は、改めて観直してみると、脚本にも原案にもダルトン・トランボの名がクレジットされていた。2020年のデジタル・リマスター版ということになるようだ。二年前に再見したばかりだが、やはり気持ちのいい映画だ。

 何度観ても、最後の会見場面は見事なものなのだが、近頃わが国では、それなりのステイタスにある人の会見での言葉があまりに無惨極まりないものだから、より一層その処し方の美しさが鮮やかに映るように感じられた。カネよりも、名を売ることよりも、心意気というものが大切だった時代の作品だ。と綴った部分に改めて感じ入るとともに、二年前に紛争ではなく友情を国家間に求める願いが、人々の心に切実だった時代の作品でもあるわけだ。近隣国との間に敵愾心を煽り立てる好戦的な空気よりも、厭戦気分が人々の間に浸透していた良き時代の映画だとも言えるような気がする。と記した部分に対する思いがより強くならざるを得ないこの二年間の出来事が残念でならない。勇ましい掛け声など、本当にうんざりとしてくる。誰のための勇ましさなのか、よくよく考えたいものだと改めて思う。

 すると、2~3年ほど前に、どうしてもスクリーンで観たくて、県外まで行って観たという先輩映友がトランボの件ですが、私もクレジットに出ているはず、と目を凝らしていましたが、出てましたね。あとでネットで調べてみると「2011年12月19日、米脚本家組合が『ローマの休日』の原案者クレジットをハンターからトランボに変更、ハンターとジョン・ダイトンの2人が記載されていた脚本クレジットにトランボの名前を追加した」らしいです。やはり、映画は脚本だと思わされた作品でしたね。と寄せてくれた。

 ウィキペディアによれば、2003年に映画製作五十周年を記念して、デジタル・ニューマスター版が発表された際に、原案をトランボに変更とあり、脚本にも名が追加されたのは、2020年のデジタル・リマスター版ブルーレイが発売された際のように記されているが、組合が変更したというのは、観客の眼には触れない「組合のほうで整えている記録」のようなもののことなのかもしれない。2003年のデジタル・ニューマスター版の際に原案部分だけに留めて、脚本の部分を変更できなかったことには、この米脚本家組合による正式記録の存在という事情が働いていた気がする。それが、2011年に改訂されたことから、2020年版では脚本部分のクレジットにも追加したということではなかろうか。

 先輩映友も寄せてくれたように、脚本は本当に大事だと改めて思う。本作にしても、二人がそれぞれの立場を明らかにしたうえでその正直な心を通い合わせる、かの記者会見場面がなくて、まさにローマの休日の部分だけなら、いかにオードリーが活き活きと休日を楽しんでいたとて、かほどの称賛を得る作品にはなっていなかった気がする。


 合評会では、ある意味、無理もないことながら両作での支持は『ローマの休日』のほうに集中したが、このカップリングで観たからこそ、トランボが希求した自由への想いの強さが浮かび上がったと好評だった。『ローマの休日』は四人ともが複数回既に観ていたことに比し、『パピヨン』のほうは三人が公開時以来となる半世紀ぶりの再見で、一人は初見とのことだった。

 『ローマの休日』でのスペイン広場の時計の指す時刻が、8:10、次のカットは9:15、そしてその次は11:25になっているといった話や、『パピヨン』で沖に出たヤシの実の浮袋の下を潜水夫が支えているといった細かい話が俎上にあがり可笑しかった。幾度か観ているのに、前者について僕は気づいていなかったのだが、後者については、今回の再見で直ちに気づいた。ポストプロダクションで消せそうにも思ったが、半世紀前だとまだ技術的に難しかったのだろうか。




【追記】'23.11.24.
 高校の新聞部の先輩から「行かにゃあ!」と言われて、『ローマの休日』をあたご劇場に観に行ったのは、やはりスクリーン観賞のないままにしておくのもどうかと思い始めたのと、今度の4K版のクレジット表記がどうなっているか、確かめたかったからだ。製作50周年記念デジタル・ニューマスター版では原案だけで脚本にトランボの名がなかったが、先ごろ観たばかりのBSプレミアム放送版では脚本にも原案にも名があった。
 予想どおり、両方に名が出てきていたが、BSプレミアム放送版(字幕 神田直美)では字幕のついていた、掃除婦がイタリア語でまくし立てる場面や花売り男の台詞に字幕がついておらず、奇しくも両者の折衷版という形になっていて、最後に「字幕 高瀬鎮夫」とのクレジットが現われた。本編の前後に淀川長治の「日曜洋画劇場」での解説映像が添えられていたから、同じような趣向で高瀬鎮夫の字幕としたのだろう。昭和の時代の名品であることに疑いはない名作映画だ。
 本編前の解説では、アメリカでの公開時に訪米中だった皇太子(現上皇)が当初の予定に入っていなかった本作の観賞を希望して観た後、たいへんよかったと言っていたとの逸話があることを紹介していたが、アン王女の台詞にある義務と責任に対する思いを彼ほどに解せる日本人は、当時いなかったであろうことと、若き日にアン王女の覚悟を観賞したことがその後の彼の姿勢に少なからず影響を及ぼしているのではないかと思ったりした。また、本編終了後の解説では、原題の「Roman Holiday」について「Romantic Holiday」を思わせるためのタイトルだというようなことを語っていたのが印象深い。
 当地での上映最終回に駆け込んで観てよかった。一階席の客数は僕のほかは三名で、うち二人が顔見知りだった。




推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より
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by ヤマ

'23.11.14. DVD観賞
'23.11.14. BSプレミアム録画



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