『由宇子の天秤』(A Balance)['20]
監督・脚本 春本雄二郎

 空調機が作動し始めると矢鱈と大きな音がする劇場なので字幕の付かない映画が不向きなところに加えて、声を潜めた台詞の多い作品だったから、聴き取れない台詞がかなり多かったけれども、それを補って余りある緊迫感と、この先どうなっていくのだろうとのスリリングな運びによって、150分超の長尺を緩みなく見せられたことに驚いた。

 先ごろ観たばかりのベルファストのポップ爺さんが口にしていた「側」の問題は、取材する側・される側、バッシングをする側・される側、負荷を掛ける側・掛けられる側と言葉にすれば、くっきり分かれるけれども、場面場面によって同じ人がどちらにもなることを描き出していた。まさに、紛れのない一つの正解などありはしないことが鮮やかに浮かび上がり、且つ具体的な切実さで語られていたことに大いに感心した。しかし、よくよく考えてみたら、小畑の家族事情にしても、木下塾の件にしても、小林医師(池田良)の描き方にしても、妙に捻った捏ね方が施されていて、表層と深層の乖離をモチーフにしていればこそ、少々遣り過ぎという気がしなくもない。

 根底には、四半世紀前に観た秘密と嘘['96]にも通じる問題があるわけだが、家族に留まらず、社会的事件と報道というフィールドになると、更に難問になるというものだ。きっちり是非を問うべき領域と是非もない已む無さの境界などないようにも思える「側」の問題が、印象深く残った。

 タイトルがまた、なかなか意味深長でいい。きちんと均衡が取れていても少しの作用で揺れてしまうのが天秤だ。揺れている状態の天秤のどの瞬間を目撃しているのか、はたまた均衡は崩れるのか。また、天秤である以上、もし均衡が崩れても分銅を加減すれば均衡は取り戻せるのか。いろいろなことを想起させてくれる題名だと思う。

 たやすく後味すっきりさせていないところに作り手の問題意識が窺えるように感じた。だが、そういう意味からは、望まぬ妊娠をしたメイ(河合優実)の父親(梅田誠弘)に対して、最後にドキュメンタリー番組ディレクターの由宇子(瀧内公美)が取った行動に作り手のエクスキューズめいた作劇的な意図を感じて、少々残念にも思った。塾生一人の証言で断定はできないけれども、父親が塾の月謝を渡していなかったメイにはメイなりの事情があったことは間違いない気がする。そのことを知って由宇子が動揺し懊悩するエンディングになることのほうが常套であって、性急にメイの父親に娘が代わって告白するような話ではない。そうすることで状況が好転する何かが生まれる目算があっての行為ではなく、数々の現場を踏んできているディレクターとは思えない浅はかさだったからだ。だから、違和感を覚えたのだが、そこを敢えて由宇子に言わせる展開にしたバイアスというか偏向圧力が何だったのかが気になった。監督・脚本を担った春本の本意ではなかったのではないかという気がしたのだ。

 それというのも、由宇子の告白に逆上したメイの父親の手で由宇子が絞殺されたかのように見せる演出が妙に引っ掛かったからだ。何とか息を吹き返すけれども、何かヘンな場面になっていた気がする。もしかすると、監督の抵抗感の痕跡かなとも思った。具体的にどういうバイアスだったのかは判らないけれど、“由宇子を隠蔽側に置いてはいけない”圧力のようなものが働いて仕方なく施した運びへのせめてもの抵抗というか、これで作品的には“絞め殺された”という場面に仕立て上げたような気がした。もっとも、仕立て上げのほうは、ほとんど妄想のようなものだが…。

 それはともかく、事実や真実というものは生半可なことで迫れるものではないだけに、報道なれば無論のこと、個人レベルでも、口さがない害意を持った臨み方は、現に慎むべきことだと改めて思う。本作に描かれた“遺族たちの負っていた苦境の理不尽さ”にだけは、些かも紛れがなかった。当事者以外における各人の哲学や思想、価値観の表明や主義主張は、理念や観念に昇華された場で交わされるのが望ましいが、それが叶わない具体性を以て交わす際には、創作活動成果のなかで果たされるべきだ。映画や小説などのフィクションは、そのためにあるのだと強く思った。そういう意味では、様々な論点を孕んだ非常に有意な作品だという気がする。

 それにしても、瀧内公美が抑制の効いた演技で豊かなニュアンスを伝えていて、なかなか見事だったように思う。『火口のふたり』での直子を上回っていたように思える由宇子に感心した。
by ヤマ

'22. 4. 3. あたご劇場



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