『草原の野獣』(Gunman's Walk)['58]
『大いなる勇者』(Jeremiah Johnson)['72]
監督 フィル・カールソン
監督 シドニー・ポラック

 先に観た『草原の野獣』は、間もなく年金生活が始まる僕が生まれた年の作品だが、アメリカ精神が今に至るも抱えている“銃規制と人種差別”の問題点と根源をくっきりと浮き彫りにしていて驚いた。

 鍛錬を重ねて上げた銃の腕前に増長してしまう長男エド(タブ・ハンター)の慢心を育んだものこそがリー・ハケット(ヴァン・ヘフリン)の体現していた開拓精神であり、先住民の土地を戦闘によって勝ち取った自負と優越心が支えている差別意識が、銃力への過信と併せて、父親に憧れる息子によって純粋培養される形で受け継がれ、当の父親が当惑し、違和感を覚えるほどのものになっているさまが印象深かった。

 それとともに、長男エドとは対照的に銃頼み力任せが苦手であるばかりか、スー族の母親とフランス人の父親の間に生まれたクリーことセシリー(キャスリン・グラント)に惹かれる次男デイビーことデビッド(ジェームズ・ダーレン)を配しているところが重要だと思う。そして、エドの卑小な沽券によって意気がった力任せの愚行が裁かれる段になって登場する偽証者シーベルツ(レイ・ティール)が、理も義も顧みない純粋欲得男の馬の仲買人である点が、今なお極めてアクチュアリティを感じさせて痛烈だった。

 息子たちにも名前で自分を呼ばせ、いつまでも張り合うことで自分の活力の源とし、そういう息子たちを得ていることを息子のいない友人ボブ(ポール・バーチ)に誇りつつも、長男にしても次男にしても、自分が望むような継承をしてくれていないことに悔恨と屈託を抱えている父親像を陰影深く演じていたヴァン・ヘフリンが目を惹いた。そのリーの人生を思うと「ガンマンとして生きた男の歩み」とも言うべき含蓄ある原題“ガンマンの道(リーと旧知の保安官の台詞として字幕に訳されていた)”を「草原の野獣」と訳した邦題は、いささか乱暴に過ぎて勿体ない気がする。

 美しい白馬と銃と先住民が象徴的に働いていた見事な脚本【フランク・S・ニュージェント】に感心しながら、遂には丸腰の保安官代理モートリー(ミッキー・ショーネシー)を射殺してしまうに至るエドに銃の腕前がなければ、あそこまでの勘違いと思い上がりはなかったろうと思い、誰がエドを、何がエドをこうしてしまったのかを思わずにいられなかった。だからこそ、最後の場面でのリーが自身の顔を覆う姿が沁みてくるのだろう。


 翌々日に観た『大いなる勇者』では、二時間を切っている録画時間なのに、序曲から始まる大作構えに驚いたが、なるほど堂々たる画面ではあるなと感心していたら、間奏曲まで現れて吃驚した。原題のジェレマイア・ジョンソン(ロバート・レッドフォード)が如何なる逸話を持つ人物なのか全く知らずに観たが、いかにも伝説的な少々釈然としない展開が却ってアメリカでは、かように語り継がれているのだろうとの納得感を与えてくれる描出になっていたような気がする。

 クリスチャン先住民の部族が登場したことに意表を突かれたが、フランス人宣教師による布教のおかげで英語は解さないけれども仏語は話せるネイティヴ・アメリカンの族長が、ジョンソンにいとも易々と娘のスワン(デル・ボルトン)を贈答品の返礼として差し出す様子に、折しも観たばかりの秀作『草原の野獣』に登場した、スー族の母とフランス人の父親の間に生まれたというセシリーの出自はそれだったのかもしれないと得心した。作中で彼女が身を寄せていたのも、確か牧師の家だったような気がする。

 そして、ジョンソンとクロウ族とのストレスフルな戦いを観ながら、『草原の野獣』のリー・ハケットが開拓者として生き抜いてきた時代は、このジョンソンがロッキー山脈の山中に足を踏ん張り、まさに“野生”を体現していた時代に重なるのだろうという気がした。リーが長男エドに継承させるべきだったのは、弟のデイビーから子供っぽいよ、「ぶん殴ってやる」なんてなどと窘められる、銃だけが誇りのマッチョ精神ではなく、この“野に生きる力”であったことを強く思った。

 ジョンソンにその野生力を授ける老猟師のベア・クロウ(ウィル・ギア)とジョンソン同様に山暮らしを続けていたと思しきデル・ギユー(ステファン・ギーラシュ)の配置がなかなか効いていたような気がする。
by ヤマ

'22. 8.25. BSプレミアム録画
'22. 8.27. BSプレミアム録画



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