『黄昏』(Carrie)['51]
監督 ウィリアム・ワイラー

 前日に観たシマロン同様にこれもまた、こういうメロドラマはもう現代では成立しなくなっているだろうなと思える作品だった。人物の造形におけるクラシカルな雰囲気が実に味わい深い秀作だという気がする。

 妻ジュリア(ミリアム・ホプキンス)からの敬愛を得られなくなって嫌味や小言ばかりの冷え冷えとした夫婦関係にうんざりしていたダンディなジョージ(ローレンス・オリヴィエ)が、ミズーリの田舎から都会のシカゴに出てきたばかりの若いキャリー(ジェニファー・ジョーンズ)から憧れの眼差しを向けられてのぼせ上がり、上流階級のなかでも一目置かれていた高級レストランの支配人職も社会的信用も失い、経済的にも社会的にも辛酸を舐めることになる物語だった。

 彼の転落について、世評的にはハイソ時代のプライドを捨てられなかったことがイチバンの理由であるように観ている人が多いようだが、最後の最後に、自分と別れ舞台女優として成功したキャリーのもとに物乞いに行って、彼女から不幸にしてしまって御免なさいと謝られる場面を観ながら、少々異なる想いが湧いた。浮浪者の身には過ぎた額の施しを与えるばかりか、いまだ夫として遇し、生活をやり直そうと口にするキャリーの脚を引っ張ることが耐えがたくて固辞しつつ、それでも恋はすばらしいと強がり、悔いはないと立ち去ろうとするジョージが、そのプライドさえ喪失させていたら、更に彼の人生は惨めだったろうと思わずにいられなかった。

 彼の人生の転落のイチバンの理由は、プライドよりも、その迂闊さのほうにあったような気がする。勿論それは若い娘にのぼせ上がったことも含めてだけれども、それは恋ゆえに仕方がないとしても、それならそれで身辺の整理の仕方とか、故意に盗み出したカネではなく持ち主の眼前に見せてもいた1万ドルの始末のつけ方とか、恋のような感情レベルの問題ではない部分での余りの無分別から発した嘘や誤魔化しが自らの首を絞めたのであって、謝罪したり助力を求められないプライドのせいではないように感じた。

 ジョージがキャリーの元を訪ねたラストシークェンスが何と言っても味わい深く、かつて彼女が口にした過去を引き摺らないでを彼が口にすることで、そのとき彼女の言っていた私はまだ若い、人生は長いわ、生きないとという台詞が利いてくる運びになっていた。キャリーの取り出した重ねて折った紙幣のほうは戻して、硬貨一つを取り出し、ガスの火を止めて再び開栓し思い直したように閉めたショットを敢えて映し出していたのは、彼の決意を示していたのだろう。

 それは、成功した舞台女優キャリーに対して過去を引き摺るなと言えるような立つ瀬を与えてくれたことへの感謝と、それゆえに恋はすばらしいと言えたことへの返礼であって、必ずしも強がりとだけには映らない運びになっていたことに感銘を受けた。また、キャリーを挟んでの恋敵となるチャーリー・ドルーエ(エディ・アルバート)の人物造形が絶妙で、決して下衆な人物像にしていないところに作品の品格を感じた。キャリーを連れて逃避行に出た際には想定していなかった苦境に見舞われるなかで、ジョージの見せていた虚ろな眼差しが印象深く、さすがのローレンス・オリヴィエだったように思う。

 ローマの休日['53]やベン・ハー['59]の大好きな先輩映友が、かねがね、昔と違ってワイラーは過小評価されているような気がすると憤慨していたが、世評に疎い僕は、世間で過小評価されているどうかを知らないながらも、コロナ禍に見舞われ自宅での映画観賞が増えた一昨年から立て続けに『ローマの休日』、『ベン・ハー』、大いなる西部['58]、西部の男['40]、我等の生涯最良の年['46]と観てきて、もし大した評価を得ていないのであれば、先輩映友の言うことに宜なるかなとの思いが湧いてきている。この機会に宿題映画の『おしゃれ泥棒』['66]を片付け、『コレクター』['65]の再見を果たしたくなってきた。
by ヤマ

'22. 3.21. BSプレミアム録画



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>