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『泳ぐひと』(The Swimmer)['68] | |||||
監督 フランク・ペリー
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いったい何だ、これは?という刺激に富んだ映画だった。泳ぐひとというのは、女たちの間を回遊してきた元モテ男のことかと思った。今ではとても通用しないに決まっている“昔馴染みっぽい人妻への尻叩き”が親愛の挨拶になる時代の作品だから、アメリカが世界第一の国として君臨していた時期の映画だ。そこに至ったアメリカという成功者の虚無を描いているということなのかもしれないとも思ったけれども、僕にとっては、いかにもピンと来ない映画であった。 森のなかの鹿の姿で始まり、ずっと水泳パンツ一丁だったネッド・メリル(バート・ランカスター)の瞳のなかにうろつく馬の姿が映るからといって、馬鹿映画というわけではないのはアメリカ映画なのだから当然なのだが、ついついそんなことを思ってしまった。 まともにプールで泳ぐ人がメリルのほかには、束の間一緒に泳いだ女を除いて誰もいないというわけだ。泳ぐ目的でプールを構えるわけでも、集うわけでもないアメリカ人たちの姿がいくつものバリエーションで描き出されていたように思う。ネッドが誘っても誰一人服を脱ごうとせぬままに自家用プールの側に佇む成功者たち。自家用プールの側で素っ裸になっていても水には入らない老ヌーディスト・カップル。子供一人残し、てんでに愛人との旅行に出かけ、泳げない子供が水を抜いて泳げなくしてしまっているプール。社交会場のエクステリアとして華は添えるけれども泳ぎには使われないプール。庶民が集う市民プールでは芋洗い状態で水遊びしか出来ず、誰も泳げない。 大国となったアメリカでは、それを泳ぎ繋いで渡り歩くことで離れた自宅にまで辿れるくらいすっかり普及しながらも、誰もがその本来の用途なり目的を見失っているとしか言えない“プール”が当時、象徴していたものとは、何だったのだろう。 本来の用途を取り戻そうと足掻いた者は、ネッドのように全てを失ってパンツ一丁になってしまう仇を負うような代物。本来なら、快適で健康的な素朴な身体的快感ももたらしてくれるはずだった代物。今から半世紀前となる'68年当時ということを思うと、それは、戦勝国アメリカで花開き、多くの人がコミットした、社会運動のことだったのかもしれないなどと思った。そういう意味では、アメリカン・ニューシネマの魁のような作品だという気もする。だが、仮にそうだったとしても、アメリカ映画らしからぬ観念性の高いスタイルが、映画としてあまり成功しているような気はしなかった。 そのようなことを洩らしていたら、ネットの映友が「何だかとても変な褒め方をしていた」と教えてくれた双葉十三郎の『ぼくの採点表』から、当時のコメントを別の映友が教えてくれたのだが、「…これはSF的ともいえる時間消失の恐怖である。逆にいえば、そういう時間消失の恐怖を利用して、なに食わぬ顔つきでネッドのような人間の実体を描き、合わせて現代社会の一角にメスを入れている…浦島太郎の心境がよくわかる。」とあった。一応、“現代社会”との一語は入れているものの、SF的に観ていたということに大いに驚いたのだが、僕が想像したような時代性とか社会性とは、あまり繋げない観方をしていたのが意外だった。 | |||||
by ヤマ '21. 2.10. DVD観賞 | |||||
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