『婉という女』['71]
監督 今井正

 今井監督ファンで四年前に急逝した田辺氏が僕の未見を嘆いていた宿題映画をようやく片付けた。婉という女(岩下志麻)が幽閉を解かれた後に居を宛がわれていた朝倉の地は、幼い頃に僕が住んでいた処でもあるくらいだから、土佐藩執政野中兼山の名も本作のタイトルもかねてより知ってはいるものの、大原富枝の原作も未読で、一家幽閉の物語としか知らなかった。コロナ禍で求められていた「Stay Home」が明けたことに準えて観たわけではないのだが、初めて観てみて、性の問題がこれほどクローズアップされているとは思いがけなかった。そして、異腹兄弟姉妹で幽閉されて他人との交わりを一切禁じられることは、孤牢に押し込められて過ごすよりもキツいのかもしれないと思わずにいられなかった。僕には姉も妹もいないので、血縁異性に対する性意識というのは実感しにくいところがあるが、性の業の深さは、次男の欽六(河原崎長一郎)の狂乱や三女と思しき婉の煩悶を観るまでもなく、知らぬことでもないから、四十年に及ぶ「門外一歩」すら許されぬ幽閉の過酷さには、ネット環境も整った当世の「Stay Home」の延長では到底計り知れない、想像を絶するものがあるように感じた。

 家族以外との接触を一切禁じられているからこそ、幽囚の身となって二十二年もの間、誰一人として訪ねて来る者がいなかったなかで高知から宿毛の地まで遥々と訪ねてきた谷秦山の存在が野中の人々において掛け替えのないものになった様子がよく描かれていたように思う。自己同一性を保つうえでの他者なるものの存在意義をこれほど直截的に描いている作品は、あまり観たことがないように感じた。希四郎(緒形拳)の喜びのほどが実に印象深く、婉に強い影響を与えたことが偲ばれたように思う。

 本作のために松竹から招いて主演に配したことがクレジットで示されていた岩下志麻が、確かに他の配役では適えられないように感じられる婉を演じて、圧巻だった。そして、自己を支えてくれる具体的な他者の存在として婉の心象に宿った谷秦山なる男の婉にとっての存在意義の描き方が大いに目を惹いた。婉が生の炎に灼かれる形で最初に刷り込まれた二十代半ばの性夢において、純白の衣だったものが、幽閉を解かれて後の四十路半ばで見る夢においては、真っ赤な衣に転じていたことが印象深い。同じ生命の炎に灼かれつつ煩悶する夢でも、御目文字を願いつつ果たされていなかった二十代の時分とは違って既に姿形を知るに至っている恋しい秦山(山本學)の姿が現れるのみならず、日々の暮らしの頼りになっている弾七(北大路欣也)も現れたことが目を惹いた。弾七が汗に塗れた上半身を晒して薪を割る半裸に目を奪われていたうえで、その姿が去来する辺りには『チャタレイ夫人の恋人』の森番メラーズが投影されていたような気がする。

 他者との交わりを一切禁じられた生は、もはや生とは言えず、生きるよすがを奪われたに等しい幽閉のなかで、長兄の清七(江原真二郎)が頼りとしたのは学問だったが、兄亡き後を継いだ希四郎の拠ったものは、学問以上に兼山の遺児たる誇りだったように感じる。希四郎の兄欽六には、その両方ともがなかったようだ。婉は、学才にも恵まれていたが、それ自体がよすがとはならず、あくまでも秦山と自分を繋ぐ縁としていたような気がする。生の業火が性の業火でもあった婉は、その点では、むしろ狂乱の余り寛(楠侑子)に襲い掛かったり、生母かち(佐々木すみ江)を犯すに至った兄欽六に近く、希四郎の寝所へ夜這いに行っていたが、この場面は、原作小説にもそのままあったのだろうか。確かめてみたい気がした。

 ともあれ、希四郎も秦山もたじろがせていた婉の生を希求するエネルギーの強さは、兄欽六とは違って学才にも裏打ちされていたからか、おそらくは希四郎にさえ真似できなかったであろう城代の行列に対して「元執政 野中兼山の娘 婉、邪魔だては許しませぬぞ」との啖呵を切るだけの自我というものを形成させたのだろう。早期のうちに男系を断つことが姉妹の赦免に繋がるのではないかとの思念があったとは言え、最後に残った男児たる貞四郎(中村嘉葎雄)の三十路のうちに逝去した生命力の希薄さとは対照的な強靱さで、さすがの岩下志麻だったように思う。極妻での凄味には及ばぬとはいえ、並々ならぬ気迫があった。当時、三十歳で四十路半ばの貫録を十分以上に発揮していて感心至極だった。もしかすると『極道の妻たち』['86]第一作への配役は、本作があってのことだったのかもしれないという気がした。
by ヤマ

'20. 6. 9. DVD観賞


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