| ||||||||||||||||||||||||||||
(第17回中之島映像劇場)“回想の岩佐寿弥”
| ||||||||||||||||||||||||||||
地元高知の山間部に暮らす亡き岩佐監督の息子さんからの案内を受け、大阪に出向いて観て来た。かねてより気になっていた『叛軍』を観られるというのが誘因の一つであったが、五年前の高知での『オロ』の上映会で知り合った息子さんから貰った手紙とチラシが効いたのは言うまでもない。B3F展示室でのクリスチャン・ボルタンスキー“Lifetime”も併せて観覧してきたのだが、両企画とも実に刺激的で、触発されるものがたくさんあり、提示される個々の作品を越えた部分での作家性というものが、提示作品全体を通して浮かび上がってくるように感じられた。 Aプログラムのタイトルに言う“ねじ式映画”なるものが何を意図しているかは、'69年という時代性からして、作中にも登場するつげ義春の漫画に由来するのは間違いないわけだが、ねじ式映画というとき作り手が何をイメージしているのかについては明らかにされていないものの、逸脱と内省ということなのかなと思った。五年前の上映会で観た岩佐監督追悼DVDの再編集版『遊びをせんとや生まれけむ』(40分)によって知った「生真面目に“シネマ・ヴェリテ”を求める映画作家としての誠実さ」からすると、いわゆる劇映画からもドキュメンタリー映画からも文法的に逸脱して、カメラで映画を撮るということの真実とは何かを原初的な立ち位置から求めているような気がした。 そして、本作の撮られた'68年にはちょうど十歳で、6.15.と聴くだけでピンと来るだけの同時代性は持ち合わせていないものの、樺美智子の名が示されることで想起されるものがなくもない僕には、アングラ劇団“自由劇場”の看板女優である吉田日出子について清水紘治ほか(中村とか溝口といった名前が聴こえた気がする)に繰り返していた「吉田日出子は生きたのか死んだのか」という些か大仰で命題的にしっくりこないように感じられていた冒頭の問い掛けが、彼女の自由劇場退団にかこつける形で「樺美智子は生きたのか死んだのか」を個々人に問い掛けるべく、追悼イベントとは異なる形で仕掛けられた企みであるように感じた。自由劇場のこともよくは知らないのだが、吉田日出子に自由劇場を本当に退団した時期があったのだろうか。'83年の来高公演でオンシアター自由劇場による『上海バンスキング』を観賞したことしかなくて不案内の限りなのだが、本作での退団自体が作り手の演出によって設えた装置のような気がした。 公開時のパンフレットには「吉田日出子を描こうとしたのではなく、吉田日出子に何をするか。この設問と結果がスクリーンに投げ掛けられる影であります」と記されていたようだが、「吉田日出子に何をするか」以上に「観客に対して何をするか」が、映画の作り手たる岩佐の問題意識だったような気がしてならなかった。女優でなければ何になりたかったかとの問いに「騎手」と即答した以外には、確かに、吉田日出子が回答に逡巡するような問いばかり投げ掛けられていたのは、やけに目の光が印象に残った清水紘治らに対しての問い掛けと同様だったように思う。 Bプログラムの≪叛軍≫シリーズは、『ねじ式映画 私は女優?』以上に挑発的な制作スタイルが圧巻だった。僕自身は、No.4すら初見だったが、過去にNo4のみ観ていた人々は、今回、岩佐監督の遺族から寄贈されたNo.1~3を観ることで、No.4の映り方が異なって来たのではなかろうか。とりわけ重要なのは、わずか9分のNo.3だったように思う。当日配布資料によれば、シネトラクト(=アジビラ映画)として制作されたとの22分のNo.1で捉えられていた反戦自衛官たる小西誠の法廷闘争への支援として、東大での反帝国主義高校生評議会の集会に登壇していた現役自衛官だという二十歳前と思しき制服を着た若者のサングラス姿での“勇気ある支援表明”が映し出されていた。続いて観たNo.4で自身の叛軍体験を証言する山田二等兵をサングラス姿で演じる男という人物造形が、この9分間により為されたと得心するとともに、山田二等兵のみならず、No.3に登場した現役自衛官を含めた人物の実在性が、一挙に揺るがされることになったような気がしてならなかった。 和田周が演じていたことを作中の後段で明かす“26年目の告白を果たしていた元旧日本軍の山田二等兵”なる人物は、当日配布資料によれば、岩佐監督が議員秘書をしていた時期に知り合った人物のことらしいのだが、周到に練られた台本に相応しい“修辞と構成の行き届いた弁舌”は非常に造形的で、細部に真実味を欠くと同時に、細部における現実味と具体性をも備えていることで迫真性に満ちており、後段での和田周と最首悟の遣り取りが添えられていなければ、その真実性に疑念を抱かない観客が多数いたであろうことは想像に難くないように思う。映画の為しうるものとしてそのことを提示するとともに、演技表現であることを明かして観客を撹乱し、そのうえでそれが直ちに内容自体の虚構性を示すものとも言えないことを提示していた気がする。加えて、それがNo.3との形式的相同性を示すことで、No.4の造形性を担保すると同時に、No.3に登場した現役自衛官の存在に対する作り手の捉え方も示唆しており、映像の捉え得る真実性というものは“実際の姿として「映っている」こと”以外には、何ら保証されていないことを訴えているように感じられた。 すなわち、No.4のエンディングで執拗にくり返された「男Aを演じることを止め、男Bを演じることを止めても、私は私自身(=真実の私)にはならない。自分自身などというものはない。あるのは私だけだ」というような趣旨のリフレインは、私=映画が捉える事象に対する岩佐の“シネマ・ヴェリテ”の表明だったのではないかということだ。 そして、『遊びをせんとや生まれけむ』での、『とべない沈黙』['66]への脚本参加に関して「あの時代らしい観念性の先行した言葉だった」と後年いくぶん気恥ずかしげに、反省の弁として語っていた姿を彷彿させるような、いかにも「あの時代らしい観念性の先行した言葉」の応酬を見せる和田周と最首悟の対話が、少々鬱陶しくも可笑しかった。また、同時にそれゆえに本作が確かな時代性を映画として宿していることに感慨を覚えつつ、演劇集団「兆」によるブレヒトの『例外と規則』の路上公演を収めたNo.2の果たしている記録性に通じるものを感じた。 そのような文脈に立ってCプログラムを観ると、言わば“存在し得ない”自分自身を三世代の女優にそれぞれ三者三様に演じさせていた『眠れ蜜』が、岩佐の追求してきたシネマ・ヴェリテの終焉となったことには、ある種の必然性を覚えるというか、納得感があった。監督デビュー作だとの『ねじ式映画』から既に始まっていた、役者であれ映像であれ“演じる(演出)とは何か”の問い掛けが、ここではもう捻じれに捻じれて錯綜していたように思う。 デビュー間もない若き根岸とし江、中年域の迫りつつある吉行和子、老女の長谷川泰子が様々な“演じ方”を、インタビューなのかインタビュードラマなのか判然としない構成【根岸とし江篇】、劇中劇の中の劇中劇といった入れ子構造【吉行和子篇】、回想インタビューなのか表白ドラマなのか判然としないなかでシャンソン(♪パリの空の下♪だったか?)を口ずさむ姿やステージで踊る姿(♪アランフェス協奏曲♪だったような気がしているが、当日配布資料によれば♪アルハンブラの思い出♪と記されていた)が添えられる構成【長谷川泰子篇】によってオムニバスとしていたが、岸部シローの軽妙さが懐かしく面白かったほかは、あまり響いてくるところがなかった。 国立映画アーカイブ主任研究員の岡田秀則が≪叛軍≫を思わせるサングラス姿で壇上に現れた特別講演では、樺美智子を扱った『ねじ式映画 私は女優?』に寄せての話だったか反戦自衛官の法廷闘争に端を発した『叛軍 No.4』に寄せてだったか失念したが、同じ「青の会」のメンバー黒木和雄監督が、政治的問題を扱いながら余りに芸術的意識に偏った岩佐の作風に批判的な弁を述べた記録が残っているとの話が興味深かった。まさしく五年前に観た『遊びをせんとや生まれけむ』で印象深かった「岩佐監督本人が言うところの「政治に対しては普通以上にセンシティヴなほうだと思っている」からこそ「東に三里塚あらば、西には水俣」という時代に、まさにその場に勇躍乗り込むことに対しては、違和感のほうが先立ったというような回顧の弁」に通じる逸話だと思う。 映画におけるシネマ・ヴェリテを追求するのと同じ感覚で、センシティヴに「演じること」や「政治性」に臨んだ足跡が今回上映された作品群に刻み込まれているような気がする。帰高時間の都合上、『オロ』の再見は諦めることにしたが、久しぶりの順から挙げると、愛知の芸術文化センターの越後谷さん(20年ぶり?)、プラネットの安井さん(10年ぶり?)、ヌーヴォの景山さん(2年ぶり?)など、思い掛けなく懐かしい顔に幾つも出会えたし、わざわざ大阪まで出向いていった甲斐のある上映企画だった。 参照チラシ:美術館 公式サイトより http://www.nmao.go.jp/event/pdf/20190323_cinema_event.pdf?fbclid=IwAR1BEVbhVjSCJhcnzqNYkFI6785I6QRd0IuqENZG7EPpb16Of8IAJdJbSd0 | ||||||||||||||||||||||||||||
by ヤマ '19. 3.23~24. 国立国際美術館B1F講堂 | ||||||||||||||||||||||||||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|