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美術館春の定期上映会 “イタリア映画特集 歴史活劇、イタリア式喜劇、ネオレアリズモ、情熱の国イタリア!!”
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昨秋、東京で開催された“イタリア ネオ+クラッシコ映画祭2018”の12作品からの6作品に、どこから引き出したか不明の2作品を加えた4プログラムによる特集上映が、思いのほか面白かった。昨秋の“カイエ・デュ・シネマが選ぶフランス映画の現在”よりも今回の“イタリア映画のクラッシコ”が断然愉しかった。またこのところ、美術館ホールでのプロジェクター上映には、あまりの画質の悪さでげんなりさせられていたのだが、さすがに主催上映だとそれなりの画質での上映を果たしてくれていて、少し安心した。 圧巻は何と言っても『ナポリの饗宴』だ。これぞナポリ!と言わんばかりの恋とカンツォーネを前面に打ち出して、映画史の金字塔『旅芸人の記録』に二十年先駆け、1660年から第二次大戦後までのナポリを旅する大道音楽芸人の一家を狂言回しに、凝った構成と画面展開で、これぞ映画ならではと感嘆する世界を繰り広げていた。 ♪オ・ソレ・ミオ♪ や ♪フニクリ・フニクラ♪ ♪サンタ・ルチア♪ など覚えのある歌の歌唱の見事さやバレエからフレンチカンカン、フラメンコに至る踊りの鮮やかさ、長廻しのカメラのなかで繋がり展開していく事物の動きの連関、額縁や舞台幕、ジオラマといった仕掛けで入れ子にした時間と空間の構成の妙味、セットにしても、衣装や美術にしても、戦後十年も経たないなかで、よくぞこれだけのものが実に愉しそうに作られたものだと驚嘆した。艶やかなモデル嬢シシーナを演じた若き日のソフィア・ローレンのみならず、役者の魅力も満開で本当に驚いた。 スタンダードサイズで上映されていたが、オリジナルも本当にスタンダードだったのだろうか。両サイドが切れているような窮屈さを画面に感じるくらいスケール感があった。全く知らずにいた作品だが、公開当時の日本での評判はどうだったのだろう。 続いて観た『狂った夜』は、'60年代の政治の季節を迎える前の戦後の若者気質のある種、普遍的なものを如何にもイタリア的な風土のなかで掬い取っているような佳作だった。オープニングに映し出されていた映像が何なのか判らず気になっていたのだが、エンディングも同じ画像になって意味が掴めたものの、丸めて投げ捨てられた紙幣だったとは思い掛けなかった。Dプログラムに取り上げられていた同じボロニーニ監督による『わが青春のフロレンス』もそうだったように、若気の至り的な無軌道性を描き出して秀逸だったように思う。両作に富者と貧者の対照というものが共通していたことも目を惹いた。 マウロ・ボロニーニ監督の作品は、'76年に『ベニスに死す』との二本立てで観た『愛すれど哀しく』と'93年の『金曜日の別荘で』の二つしか観ていないのだが、今回の両作品のみならず『金曜日の別荘で』も観応えのある作品だったことから、既に記憶の彼方に追いやられている『愛すれど哀しく』を再見してみたくなった。女優をとても魅力的に画面に息づかせる監督だという印象を持った。 Bプログラムの二作品は、紛うことなきジャンル映画のエンターテイメントとして、堂々たる作品だった。金羊毛を護る怪獣の声がゴジラに似ていて、もしかすると影響を与えていたのかもしれないと思った。それにしても美女美女のオンパレードで、シルヴァ・コシナの演じるイオレのみならず、『ヘラクレス』でのアマゾネスにしても、『ヘラクレスの逆襲』でのリディア国王妃以下宮中の女性たちにしても、この時代の娯楽映画の王道を行く絢爛さで恐れ入った。 Cプログラムの『三月生れ』は、'58年三月生れの僕には、気になるタイトルの'58年作品だったのだが、チラシに記された紹介コメントによれば「三月はいかれている」から採られているのだそうだ。しかし、三月生れのフランチェスカ(ジャクリーヌ・ササール)は、確かに少々手に負えない若々しい厄介さを備えてはいたが、「いかれている」は当たらないと思った。むしろ、夫の建築士サンドロ(ガブリエル・フェルゼッティ)とも併せ、双方ともに“非がありながらも悪のない”二人が、年の差婚のなかでズレていく結婚生活のディーテイルのリアリティが見事で、場に流されつつも「こういう仲直りはダメなの」と抗っていた幼な妻の苦衷を描いて、六十年前の作品とは思えない先駆性を感じさせる脚本に驚いた。その非がありながらも悪のない人物造形が実に見事だと思ったのだ。フェミニズム映画としても出色の出来栄えだという気がする。 また、クレジットを眺めていたら脚本にエットーレ・スコラの名も出てきて、目を惹いた。ただ字幕でもチラシの紹介コメントでも「17歳」となっているフランチェスカの結婚年齢には違和感があった。当時のイタリアでは、17歳で大学生だったのだろうか。 別居して一年余り、二十歳のフランチェスカが自身の結婚生活を振り返る作業に、想いを秘めたままずっと付き合っていたカルロ(マリオ・バルデマリン)が少々気の毒ではあったが、彼の助力なくして辿り着けない顛末だった気がする。もっともカルロにしてみれば、そんなつもりでは更々なかったところがまたいい。人生、そうしたものだと思う。フランチェスカのいかにも若々しく虫のいい無頓着さに現実感があった。 続いて観た『イタリア式離婚狂想曲』では、'90年度のマイベストテンで『ドゥ・ザ・ライト・シング』に次ぐ第二位に選出した『あんなに愛しあったのに』['74]で魅了されたステファニア・サンドレッリの若々しい姿に瞠目させられた。『三月生れ』に脚本参加していたエットーレ・スコラの原作・監督・脚本作『あんなに愛しあったのに』の十三年前に既に映画出演していたのかと驚いたが、調べてみたら、なんと御年十五歳。なんて早熟なんだとまた驚いた。『三月生れ』では、離婚手続きを取るためにはスイスで五年暮してスイス国籍を取ってからでないとイタリアではできないといった事情が語られていたが、本作では、そういったことからか、寝取られ夫となった不名誉を雪ぐ“名誉殺人”による情状酌量で短い刑期で出所しようと企てる男(マルチェロ・マストロヤンニ)の手が込んでいるのか間が抜けているのかよく判らないような珍妙な顛末が綴られていた。 結局のところ、男が当てにしたり操ろうとする思惑どおりの女心などまるでないわけで、なかなかシニカルなラストショットで終える物語だった。『甘い生活』など、どこにもないというわけだ。 Dプログラムの『にがい米』について、チラシの紹介コメントには「イタリア本国で、初めて興行的に成功した“ネオレアリズモ”映画とされる」と記してあったが、レアリズモというには余りにも芝居がかった脚本と演出でいて、いかにもネオリアリズモ的な労働現場が描かれていることのもたらす奇妙な味に、何ともヘンな映画だと思った。 主演していた役者の魅力としては、フランチェスカ(ドリス・ダウリング)も、ワルテル(ヴィットリオ・ガスマン)も、シルヴァーナ(シルヴァーナ・マンガーノ)も、マルコ軍曹(ラフ・ヴァローネ)も申し分ない気がするのだが、それぞれの性格付けと取っている行動には、釈然としないオカシナ感じが付きまとっていたように思う。 それは、契約を要するのか要しないのかさえも判然としない就労現場とその差配に至るまで、本作に終始付きまとっていたものだ。最後の米泥棒においても、前日に観た『イタリア式離婚狂想曲』のフェルディナンド(マルチェロ・マストロヤンニ)の如く、手が込んでいるのか間が抜けているのかよく判らないような珍妙な顛末で、泥に嵌ったタイヤのような空転ぶりを半ば呆けて眺めていた。その後の展開は、さらにレアリズモらしからぬロマンティシズムに彩られ、米で葬られる姿に驚いた。 そもそものワルテルの逃走は、何だったのだろう。偽物とは知らぬままに易々とシルヴァーナに宝飾品が渡る運びにしても、四人の男女の関係性の変転にしても、かなり驚かされた。ネオリアリズモなどという色眼鏡で観るとそうなるわけだが、総てが役者の魅力を引き立てようとする御膳立てなのだとわきまえて観れば、役者に魅了させることにはかなり長けていた作品だったようにも思う。 そういうロマンティシズムの社会性との按配という観点からすれば、続いて観た『わが青春のフロレンス』には上々のものがあったように思う。 1880年生れのメテロ【原題】の十七歳から二十五歳までの“青春”を描いた本作は、近代イタリアそのものの“青春”を描き出してもいて「もうひとつの『Novecento(1900年)』」と呼びたくなるような風情を湛えていたような気がする。Cプログラムの『三月生れ』に感じたような“非がありながらも悪のない人物造形”がいずれの人々にも施されていて、教条的にブルジョア悪や資本家悪を糾弾するのではなく、むしろ運命的な縁によって生かされている人々が、それぞれの役割を負って社会と歴史を創り上げてきている感じが浮かび上がってきていて、なかなか感慨深かった。 自身の浮気を棚に上げ盗人猛々しく「まるで隙のない完璧な妻などいらない」などと零していた、自意識の強いメテロ(マッシモ・ラニエリ)は、伝説のアナキストとして知られた父親の息子として、外では粋がり、自負と優越感を満たしながらも、繊細で感受性が豊かなればこそ、妻エルシリア(オッタヴィア・ピッコロ)には引け目を感じることが多かったのだろう。もしかすると、隣家の若き人妻イディナ(ティナ・オーモン)も、彼がエルシリアの夫でなければ、敢えてメテロを誘惑したりはしなかったのかもしれないとさえ思った。 それにしても凄いのは、メテロと同い年の若さで、自身のそういった嫉妬を招く属性さえも承知して呑み込んでいるようなエルシリアの完璧ぶりだった。ある意味、完璧であることが瑕になるという人間なるものの困難さは、その集合体である社会というものが、理想の実現の叶わないものであることを暗示しているようでさえあって、なかなか奥深い。それでも、次代は必ず生まれ、歩みは止めることなく進めて行かねばならないものなのだ。 そのようななか、イディアからの誘惑に他愛なく溺れながらも、妻への弁明には「自分から誘った」と詫びていたメテロや、三年の兵役を終えて駆け付けたメテロに彼女なりの自負として“女のケジメ”を教えることで、大人の女性の何たるかを筆おろしから仕舞いの端まで教えて送り出していたヴィオラ(ルチア・ボゼー)の人物造形に魅了された。メテロ一家の苦境に彼女が手を差し伸べたのも、我が子の実父ということ以上に、自分が関係を持った男たちの誰よりも、純で一途な想いを素直にぶつけてきてくれたメテロの掛け替えのなさを愛しんでのことだったに違いない。 参照テクスト:美術館 春の定期上映会 公式サイト https://moak.jp/event/performing_arts/2019springfilm_Italian.html | ||||||||||||||||||||||||||
by ヤマ '19. 6. 7~9. 美術館ホール | ||||||||||||||||||||||||||
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