『強虫女と弱虫男』['68]
監督 新藤兼人

 奇しくも前々日に何十年ぶりかで観た祭りの準備['75]で、江藤潤の演じる楯男が新藤さんいう偉いシナリオライターが雑誌に書いちょった。誰でも一本は傑作が書けるってね……それは、自分の周囲の世界を書くことじゃとと涼子(竹下景子)に話していた新藤兼人の監督脚本作品だ。

 さすがにこれは自分の周囲の世界ではなかろうとの“ネグリジェサロンで強かに生きる母娘ホステス”の物語だ。何といっても、母フミ子を演じた乙羽信子が凄い。この夏に公開予定の『ワンダーウーマン』も敵いそうにない強虫女ぶりに圧倒された。“肚の座った踏ん張り”というのは、こういうものを言うのだろう。無論のこと、是非もないその生き様が圧巻だった。

 だが、高知新聞の天野記者の紹介記事によれば、新藤監督の身近にネグリジェ・サロンのホステスに入れあげた人物がいて、彼を介して監督自身が直にインタビューを行ったモデルが本作にはいたらしい。それが母娘ホステスだったのかどうかまでは記されていなかったが、大いに感心した。

 本作では、国策動員されていた炭鉱事業が時代遅れとなって相次ぐ閉山で生活困窮に立ち至った家族が、生活保護で糊口をしのぐ窮乏から抜け出すために、六人家族のなかの母娘二人が元炭坑夫の夫(殿山泰司)と小中学生の妹弟を九州に残して、京都に出稼ぎにくる。「国に見捨てられたからにはこうでもするしかない」と長女のキミ子(山岸映子)ともども丼に残り物のビールを注ぎ込んであおっては吐きして、酒に強くなる鍛錬をしたり、当面もっとも金になりそうな破瓜の手管を娘に指南したり、先輩ナンバーワンの最上客を寝取ったりしながら、事あるごとにフロア主任(戸浦六宏)からの懲罰と表彰を得ていたフミ子の迷いなき揺るぎのなさが印象深かった。

 いまや全く頼りにならなくなっている夫の元に仕送りを続け、生活保護を切られぬようテレビや洗濯機は押入れに隠せと指示しつつ、何があっても閉山された坑夫宿舎からは離れるなと命じるフミ子が挑んでいるものは、国策の破綻にきちんとした始末をつけようとしない国そのものであるかのように映ってくる作品だった。

 当節、本作を観て“原発問題”“米軍基地問題”に想いを馳せる者がいかほどいたかは、おいそれ察することもできないけれども、上映会主催者がリーフレットに記していた“社会派”新藤兼人が描き続けた、もう一つのテーマ“性と生命力”“女性讃歌”。という点では、本作にはその三つともが描き込まれていたように思う。むしろ“性と生命力”ということについては、紹介されていた新藤自身の言葉にもあるように、“失われた性”を描いているのだろう。たたかいに性が邪魔だから捨てて、捨てた性を武器にした女たちの物語なのだ。弱虫男たちに太刀打ちできないのは当然だという気がする。
 
by ヤマ

'17. 6.10.あたご劇場



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