『第九条』
監督 宮本正樹

 こういう作品を観ると、改めて12人の怒れる男の偉大さを思い知るような気持ちが湧いてくる。ロシアのミハルコフ監督によるリメイク作品の日誌にも記したように、「個々人の関係性が白紙の匿名の12人を一堂に集め、それぞれの個性と人生の深みを窺わせるだけの人格表出を自ずと引き出す場として比類なきシチュエーションとも言える設定」がきちんと活かされ、その主張内容の当否はともかく、いま改憲問題で言われているさまざまな言質のおおよそのものが網羅され、非常に判りやすい形で並べ立てられていたように思う。

 そのまま映画タイトルになっている日本国憲法第九条の破棄か維持かという本作での問い掛けは、自主か外来かといった憲法改正の問題というよりも、畢竟、武装強化によって平和が近づくか遠のくかの世界観の違いのぶつかり合いであることが明確に浮かび上がっていたことを積極的に評価したい気になった。

 武装強化の要否についての僕の考えなら、日本のいちばん長い日』の映画日誌に既に記してあるところで、これだけ武器が拡散し高度化してきているなかにあって「いまどき武力の強化で威嚇して国が守れるなどと本気で思っているのだろうか。僕には疑問で仕方がない。」というのが本音だ。

 とても国民的合意は得られないのだろうが、僕は、防衛省にしたって応災省に改組して、災害等に対して自国のみならず国際救助に積極的に乗り出し、高いレスキュー能力を発揮することで国際貢献を果たして、世界中からなくてはならない存在だと思ってもらえるサンダーバードみたいな組織に自衛隊を特化することで武器など捨ててしまったほうがいいとさえ思っているくらいだ。これは12年前、まだ防衛省が防衛庁だった時代に亡国のイージス』['05]の映画日誌にも記したことなのだが、そのときにも危惧していた「自衛官たちを中途半端な境遇に置いたまま軍備強化していくことの危うさというもの」は、今や比較にならないところまで来ていて、現場の自衛官たちが日報に記した「戦闘」という用語は「戦闘行為」を指すのではなく「武力衝突」に過ぎないなどという無理な答弁を担当大臣が行う程にとんでもない事態に至っている。

 自衛官たちの誇りが傷ついているのは、欺瞞と矛盾を放置した今の制度のなかで、その欺瞞と矛盾の解消よりむしろ助長に勤しむ状況に押し流されるままに、いつまでも中途半端さに晒されている自分たちの位置づけが一向に変わらないからだろうと思う。軍備は増強されても自分たちは放置されているわけで、それは、如何に自分たちの存在が蔑ろにされ続けているかの現れだと彼らが思うようになってきているという気がする。との僕の認識は今も変わらないどころか、『亡国のイージス』のような事態が生じることへの懸念はますます強くなってきている。それとともにアメリカに尻尾を振ってばかりの現政権下で、更には、その政権を国民の過半が支持する状況下で、とてもそんな独自路線を歩めそうにはないのが残念だ。自衛隊のサンダーバード化をもし果たし得たら、それに携わることで、自衛官の傷ついた“誇り”も大きく回復されるはずだとの思いもより強くなっている。

 だからかもしれないが、勇ましいだけの野蛮な覚悟を“愛国心”として鼓舞して危機感を煽ることで、権勢の獲得やアメリカからの高い兵器の購入によってもたらされる利権を目論んでいる連中の弄する弁に、世論が乗せられつつあることが嘆かわしくてならない。しかもそれが、本作でも窺えるように、人々の素朴で良心的な感情を巧みに突く形で拡がってきているところに、実に禍々しい罪深さを感じている。

 武装強化によって平和が近づくか遠のくかの世界観の違いについて語るなら、江戸時代以降は、武器所持階級の武士が佐幕倒幕に分かれて覇権争いをした幕末期を除いて、日本に大きな内戦や内乱が起こらなかったのは秀吉が行った刀狩によるものが大きいと僕は思っていて、その対極にあるのがボウリング・フォー・コロンバイン』(監督 マイケル・ムーアに捉えられた銃社会アメリカなのだと考えている。だからこそ日本では、幕末期に武士階級が尊王か攘夷か、倒幕か佐幕かと大騒ぎしていたなかにあって庶民には、どっちでも“ええじゃないか”と言わんばかりの騒ぎが流行ったわけで、なかでも僕は「何んでもよいじゃないか、おまこに紙張れ、へげたら又はれ」と歌い踊ったと伝わるらしい淡路が、最も物騒な向きから遠くて実に好もしいと感じている。だが、それゆえに動乱の歯止めには何らならないとも言えるわけで、むしろ倒幕派を利するための策謀であったとも言われるゆえんだ。

 それからすれば、ある種のバランス感覚を持って、佐幕派でありながらそれゆえにこそ大政奉還を建白した鯨海酔侯 山内容堂や、尊攘派から発して公論開国派に転じ幕臣とも討幕運動者とも親交の深かった坂本龍馬などの土佐の先達は見上げたものだと思う。鯨海酔侯は生粋の土佐人とは言えないのかもしれないが、第15代ともなればもはや外様と言うも憚られるところがあるし、郷士といったところで坂本龍馬にしても先祖は畿内からの移住者だったらしい。土地の人ということを言うのであれば、先祖よりも当人が生まれ育った風土のほうが大きい気がする。その意味から、佐幕倒幕両派において原理主義的ではないリアリストであり且つロマンチストであったと思われる人物を生み出し、“土佐にあだたぬ”器量を発揮したことを郷土の誇りとする思いは僕のなかにもなくはない。

 だが、そもそも帯刀して気色ばむ武士など日本人全体から見れば、ほんの一部の者でしかないのだ。男たちの大和/YAMATO大日本帝国』の日誌に引いた坂東眞砂子の地元紙への寄稿“大河ドラマにだまされるな”のなかに示されていたことは、かねてよりの僕の思いと重なる部分が多く、二十代の時分に観た井上ひさしの『きらめく星座』のなかに描かれていた戦時下での庶民の姿にこそ、真っ当なものが多くあると思っている。下手に強くないほうがいいのだ。強さに驕りやすく、力をろくなことにしか使えないのがマスとしての人間の有態のような気がしてならない。

 本作の高知の上映会には中谷前防衛大臣夫妻を含め、127名の来場があったそうだ。会場のキャパシティからすれば、上々の入りで大健闘だと思う。維持派として明確に自認している立場からすれば、物足りない部分もあるのだろうが、おそらく作り手の意図としてあったのは、既に自分の答えとして維持派となっている人々の快哉を得ることだけはむしろ避ける形のなかで、破棄派の人たちの想いも汲みつつ、維持派の想いを伝えることだったような気がする。映画としての形式を借りた『12人の怒れる男』では1対11から逆転しての満場一致という劇的な仕舞いを付けてカタルシスに至るが、そうはしたくなかったからこそ、本作のエンディングは問い掛けで終えていたのだろう。

 十二人の三分の一の四人に女性をしたうえで全員を維持派にしてスタートするところは、少々不満だった。当世、勇ましい弁において威勢が目立つのは、櫻井女史を持ち出すまでもなく、むしろ女性だったりするように感じているので、少々感覚が古い気がしたのだ。核の問題への言及がありながらフクシマに触れていなかったことについては、フクシマは、ついでに添えるような話ではないので、妥当な判断だと感じている。僕が積極的に評価したいと感じた畢竟、武装強化によって平和が近づくか遠のくかの世界観の違いのぶつかり合いであることが明確に浮かび上がっていたという焦点が、フクシマを持ち出すとぼやけてしまうことを懸念したのではないかと思うからだ。





推薦テクスト:「市民メディア放送局」より
https://www.facebook.com/shiminmedia/videos/920632505514224
by ヤマ

'17. 2.18. 喫茶メフィストフェレス2Fホール



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