『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(Demolition)
監督 ジャン=マルク・ヴァレ

 先ごろ観た永い言い訳(監督 西川美和)のような映画だった。あちらのほうがいいと思う部分と、こちらのほうがいいと思う部分とが混在しているけれども、『永い言い訳』の日誌に映画でも小説でも「喪の仕事(グリーフワーク)」を描いた作品は少なからずあるが、後悔とか遺憾といった言葉では表せない多義性を帯びた“リグレット”に焦点を当て、これほどに描出し得た作品には、あまりお目にかかったことがないように感じたと記した部分で相通じているように感じた。

 夫婦で交通事故に見舞われ自分だけが生き残った夫デイヴィスを演じたジェイク・ギレンホールは、こういう心の病んだ役どころが似合っているし、実に上手い。また、『永い言い訳』の大宮と同じくシングルマザーのカレンを演じたナオミ・ワッツは相変わらず、華を欠く魅力ともいうべきものを華開かせていて流石だ。

 人の心や振舞いの真実など、表面的なところからでは何も見えないというのは、先ごろ観たばかりの三度目の殺人でも扱われていた題材だが、人間という存在の最も扱いにくく且つ気になる部分だと思う。強い心的衝撃を受けたときに、ある種の無感覚に近い反応の鈍化とともに起こる内部で蓄積される破壊衝動というものに僕自身が見舞われた経験はないのだが、とても納得感があった。

 また、『永い言い訳』での小学生大宮真平やマンチェスター・バイ・ザ・シーでのパトリックに当たる存在が、本作でもカレンの息子クリス(ジュダ・ルイス)として現れていて、ケアを受けてもおいそれとは癒えない心の傷が他者をケアすることでケアされるという、人の心の特質というものを浮き彫りにしていたようにも思う。『三度目の殺人』の三隅においても、出所後の職場となった食品工場の社長の娘咲江の存在が、そのようなものだった気がしてならない。

 最終選考で絞り切れずに選ばれた三人の奨学生の三人目が、初対面のカレンに「おっぱい触ってもいい?」とパーティで声を掛けてきた若者だったのに、人格・成績とも優秀だとフィル(クリス・クーパー)から紹介されて、思わず場違いな笑い声をあげてしまい、カレンが「失礼…」と退席する場面が何とも可笑しかった。まさに表面的なところからでは何ら真実は見えていないわけだ。

 だから、夫婦のことであれ、親子のことであれ、見抜き推し量ったりできないことが責められるべきことではなく、もともと人間というのは、そう何もかもを表に晒していたりはしないものだ。でも、自分の知らなかった亡き妻の行状を知ることで、却って肩の荷が軽くなったように“晴れた日の彼女”を偲ぶことができるようになっていたデイヴィスの姿に納得感があった。実にストレートに“破壊”をタイトルにしていた原題を敢えて意味深長な邦題に改題した意図は何だったのか、少し気になった。
 
by ヤマ

'17. 9.22. 美術館ホール



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