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“ありがとう、さようなら 高倉健 菅原文太 追悼番組”
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同じ昨年11月に逝去した高倉健と菅原文太を偲んで、あたご劇場が選んだ二作は、それぞれ四十路に入ったばかりの二人が当たり役を演じている作品だった。その年頃のときが最もスターとして輝いていたとの想いなのだろう。顔つきも体つきも引き締まった男盛りが確かに見事だった。 昭和初期を舞台にした『昭和残侠伝 吼えろ唐獅子』では、花田秀次郎(高倉健)が風間の弟文三(松方弘樹)と二人だけで川勝組の親分の命をとりに行く場面で始まり、風間の兄重吉(池辺良)と二人だけで黒田組と稲葉組の親分の命を取りに行く殴り込みで終わっていた。この構成に対し、戦後間もない時期から高度成長期の時代を舞台にした『新仁義なき戦い』では、三好万亀夫(菅原文太)が傷痍軍人を装った松葉杖を投げ出して浅田組の組長の命を拳銃でとる場面で始まり、瀕死の重傷を負わされ入院していた関勝(松方弘樹)が青木組の組長(若山富三郎)に銃弾でとどめを刺した後、松葉杖を拾う死闘で終わっていて、両作品の構成の対照が、なかなか利いている二本立てだと思った。 また、ローポジションのカメラや水面への映り込み、浮世絵的な遠近構図を散りばめた、いかにも時代劇色の濃いドスで争う『昭和残侠伝 吼えろ唐獅子』と手持ちカメラや画面からの見切れ、密室的な閉塞構図を散りばめた、いわゆるニューシネマ色の窺える『新仁義なき戦い』の銃撃という対照も興味深かった。 両作とも、'60年安保闘争のようには盛り上がらずに腰砕けになった'70年安保の後の「しらけの時代」の作品なのだが、ろくでもない人物を親分にいただいたばかりに理不尽な難儀を負いながらも我慢を重ね、既存スキームを守りつつ何とか個人的折り合いをつけようとする苦境をベースにしていて、これが日本社会構造のある種の典型とされていた時代の作品なのだろう。映画の作りも筋立ても、いかにも昭和色の強い作品だったけれども、そういう点では、今の時代もさして変わらぬ普遍性があるのかもしれない。もっとも秀次郎や文三、万亀夫の“筋目に拘る美学”など、平成の若者には理解しがたいような気もする。当時、中高生だった僕でさえ、分からぬではないながらも共感はできない代物だったような記憶がある。演歌や邦画の非合理な情緒的感性を冷やかに眺め、洋楽や外国映画に惹かれていたように思う。 先に観た『昭和残侠伝 吼えろ唐獅子』の松原智恵子が高倉健に取り縋って見上げる面差しが美しく、後から観た『新仁義なき戦い』の池玲子が菅原文太の背の大鯉に擦り寄せる裸身に魅せられた。僕はヤクザ映画をあまり好まないほうなのだが、昔の映画を好もしく思う歳になっている実感を覚えた。 | ||||||
by ヤマ '15. 9. 6. あたご劇場 | ||||||
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