『ある精肉店のはなし』
監督 纐纈あや


 大阪府貝塚市で七代にわたって家族経営で精肉店を営んできたという家族の記録を観ながら、アイデンティティがしっかりしている人の生き様には輝きがあり、美しいと改めて思った。もちろんそこに至るまでにはいろいろあったのだろうが、映画のなかで59歳とクレジットされていた“肉の北出”家の長男新司さんの口から、若い時分に水平社宣言と出会って人生が変わったというようなことをいま聴くことに感慨を覚えた。百年近く前の言葉が、自分と同世代の人を動かすのだから、凄いことだと思う。

 それと同時に、21世紀の今になってなお、同じ一族・家族のなかでも実名字幕と匿名字幕に分かれて画面に登場することや、画面に姿の現れる者が一部でしかないことが日本の現実であることにも、直面させられる作品だった。画面にまで現れながらも名前を呼ばれることがなく、孫と表記されていたり、男性1とか男性2という表記で字幕に登場する人物の声があるのは、むろん現実社会で蒙る差別のリスクに対する配慮なわけで、そうせざるを得ない実態があるからに他ならない。

 映画上映後にセットされていた監督講演「いのちを食べて いのちは生きる」で話のあった、多くの人に知られざる屠畜というものについては、僕自身は、屠畜場を見学したことがあるし、小学低学年の時分に住んでいた市営住宅の庭で父親が飼っていた鶏を絞めて鶏スキにして食したりしていた記憶があるので、少々事情が違うかもしれないけれども、7年前に観たいのちの食べ方とはまるで異なる屠畜の捉え方に、日本と欧州の違いを感じるよりも、家内労働的な屠畜と量産体制との違いのほうを強く感じた。
by ヤマ

'15. 7.15. 県民文化ホール・オレンジ



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