『春婦傳』['65]
監督 鈴木清順


 戦時中の慰安婦問題が昨今かまびすしい。といっても、専ら一部マスコミと政界での話だという気がしなくもない。そして、彼らの関心事は、ひたすら軍による強制連行があったのか否かの一点のようで妙に珍妙な気がしてならないのだが、そんなこともあって二年近く前に録画してあった作品を観ることにした。未見作のつもりだったのだが、次第に既視感に囚われ、観終えてから、既見作ではないのかと記録を辿ったのだが、リストには見当たらなかった。どうも腑に落ちないのだが、どうやら暁の脱走['50]を観ていることが作用したとしか考えられない。

 自身のことでさえこれだから、人間の事実認識などというものは、いかにも心許なく何とも当てにならないものだ。少なくとも、明確な記録のないことが存否を決するものではないのだが、逆に言えば、動かぬ証拠を突きつけないと拒みたい者は拒み続けるに決まっていて、証拠を突きつけてさえ、拒みたければ白を切るのが人間というものだ。証拠がなければ証明はできないが、証拠の不存在は証明力のなさでしかない。さればこそ、何も証明していないのであって、証拠の不存在が事実の不存在を証明していることには決してならないのは、極めて明快なロジックなのに、それを理解しようとしない者が少なからずいるのも、要は“拒みたいから”にほかならない。

 いかにも'60年代的なアブストラクション趣味の窺えるオープニングの画面から既視感があったわけではないけれども、仄かに脇毛を覗かせて横たわった野川由美子の演じる春美に、山口淑子の春美ではない慰安婦としての見覚えがあるような気がしてならなかった。両作を比較すると、15年の違いにおいて、映像にできる領域に差があり、かつ清順ならではと思われるショットが散見されながらも、断然『暁の脱走』のほうが優れているように感じた。

 原作は田村泰次郎の『春婦傳』で同じ作品だ。一番の違いは、副官を演じた小沢栄と玉川伊佐男の差のように思ったが、谷口作品での小沢のようなキャラクター造形を鈴木清順が好もうはずがないので、役者の違いによるものとは一概に言えないのかもしれない。脚本を担った黒澤明と高岩肇の違いもあるのだろうか。慰安婦同様に兵士のやるせなさがよく描かれ、皇軍兵士も慰安婦も等しき存在として描かれていたように思える谷口作品には、抽象性や観念性への志向は一切なかった気がする。春美が想いを寄せる三上を演じた本作の川地民夫は、谷口作品の池辺良とも共通するなまっちょろさにおいて、全くぶれのない優男ぶりだったように思う。

 ともあれ、千人の兵隊の相手を十人でしなければならないことを嘆きつつ開き直るしかない慰安婦たちが描かれ、彼女たちに手を合わせつつ伸し掛かる兵士や居丈高に臨む士官やらの相手をしている慰安婦たちのなかに日本人ではない女性が混じっていた点では岡本喜八監督の独立愚連隊['59]とも同じだ。

 力づくや強制ということを何をもって言うのか定義づけしないままに、訴えたい論旨と論点にしていることの間にずれのある不毛な論争をしているようにしか思えない慰安婦問題に出くわすたびに、それぞれの論者が先ず徴兵制というものを国家による強制と捉えているのかいないのかという判りやすい事例で各々の立場表明をすべきだと思うし、それすらしないままに論争を重ねるナンセンスに呆れてしまう。一方が強制だと思っている形態をもう一方がそれは強制ではないと思っているままに、強制があったなかったを言い合っても、それは事実を争う論争ではなく、認識論でしかない。

 そもそも慰安婦問題の強制連行は、あったかなかったかではなく、紛れもない事実として存在した従軍慰安婦たちをどう捉えるかの問題なのに、敢えてすれ違った論争を重ねているのは、双方に慰安婦問題とは別な思惑と意図があってのもののように思えてならない。彼女たちの問題を“口実”にしているようにしか見えない不遜極まりない論者たちのいずれの言質に対しても、だから僕は、真に受ける気にはなれないでいる。





推薦テクスト:「LITERA 本と雑誌の知を再発見」より
http://lite-ra.com/2014/09/post-440.html
by ヤマ

'14. 8.25. ちゃんねるNeco録画



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