『それでも夜は明ける』(12 Years A Slave)
監督 スティーヴ・マックィーン


 僕もいささか歳を取ってしまったようだ。このような作品は、いつの時代になっても再生産されなければならないと思うし、かようなことが、形を変えて今も繰り返されている人間の現実から決して目を逸らしてはいけないとも思うのだが、もっと若いときなら恐らくは感動さえ覚えて観入ったであろう作品の、胸の悪くなるような描出の連続がけっこう応えて、しんどさのほうが勝ってきた。それだけ迫真の演技演出だったということだから、秀作であるのは間違いない。また、差別の問題に留まらない“人間性や人間社会の本質”を鋭く衝いていて、それ故にしんどさが勝ってきたような面もあるような気がしている。

 法的に或いは村社会的にであっても、そのことが認められていて、且つ必要にも迫られると、毒を食らわば皿までとなることに痛痒を覚えないで済む“人間性”というものを如何なく発揮できる人々が、当たり前のように多数者になる。それが人間社会だと改めて思う。

 ソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)の才覚と力量を認め、彼にフィドルを買い与え、神の愛を説きながらも、厄介払いとして借金のかたに冷酷非情で知られる男に売り渡すフォード(ベネディクト・カンバーバッチ)や、何らの疑問も迷いもなく黒人を蔑視すべきものとする考えに染まっている、知性の欠片も窺えないティビッツ(ポール・ダノ)から、周囲の目に対してどう臨んでいたか不明ながら黒人奴隷を正妻に迎えつつ、奴隷を使用人として買い取っていたと思われるショー、正妻に迎える器量は持たないまま、奴隷女に心奪われてしまう自身にまるで引き裂かれているかのように映るサディスティックな激情に駆られていたエップス(マイケル・ファスベンダー)のみならず、単なる金儲け道具でしかない非情な奴隷商人フリーマン(ポール・ジアマッティ)やソロモンに救いの手を伸べる白人たちも含め、さまざまなスタンスの人間が登場する。

 また、差別や虐待を受けている側においても、先ごろ公開された大統領の執事の涙に描かれたような様々な位相があって、抗う者も屈する者もいて、忍従しつつ少しでも自身の境遇改善を図る者から、深い絶望に囚われる者、諦めと無関心に逃げ込む者まで、さまざまなスタンスの人間が登場する。瀕死の首吊り状態で長時間放置されているソロモンを視野にも留めずに黒人の子供たちが背後で嬌声を挙げて戯れていたりすることや、ソロモンの根源的な怒りが“自由黒人であるにもかかわらず受けている処遇の不当性”であることが痛烈だった。それは、フォードの弱さを責めるのが酷なように、決して子供たちやソロモンが咎められるべきことではない。だが、エップスの命令によって鞭打ったソロモンに裂かれた背の血肉に油を塗って介抱される痛みの激しさや、ソロモン一人だけが奴隷の境遇から抜け出せる理不尽さのなかで、彼を見つめるパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)の眼差しの闇の深さが観る者を戦慄させるのも、間違いないことなのだ。

 そして、それこそが人間社会の真実なのだろう。さればこそ、理不尽なことがなかなか是正されないし、利得と保身が、必要悪どころか正当性までも訴えることを恥じさせないのが“人間性”なのだと、今に至っても原発再稼働や新設を進めようとしている連中のことを思ったりした。当時のアメリカ南部諸州の地主や奴隷商人にとっての奴隷制度と今の日本におけるエネルギー政策としての原子力発電とが重なって見えた次第。




推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より
http://blog.goo.ne.jp/rainbow2408/e/2dae444d5d900c1a0e8c5b4975c100f8
推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1923533767&owner_id=1095496
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1924716431&owner_id=3700229

by ヤマ

'14. 3.18. TOHOシネマズ2



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