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『炎上』['58] | |||||
監督 市川崑 | |||||
ちょうど僕の生まれた年の映画なのだが、何とも陰鬱な作品だった。 善と悪、とりわけ偽善と露悪の対照を利かせる形で、神仏に昇華された観念の美と、色と欲に惑う人間の生臭い醜を描き出されても、既に三人の子供や四人の孫に恵まれている僕の歳にもなると、善悪美醜の対照など一つのものの観方次第ないしは表裏であって是非もなきことのような気がして、あまり共感を覚えるところはないのだが、未熟に対する苛立ちは却って亢進してくるようだと気付かされた。 大学に通う学僧の若さにあるとはいえ、溝口吾市(市川雷蔵)の余りの未熟さには少々脱力せずにはいられない。無論、より好ましくないのは悪なのだろうが、むしろ悪よりも未熟のほうがタチが悪いことが図らずも浮かび上がってきていたように思う。 戸苅(仲代達矢)の露悪の造形は、いかにも三島的な美学の表れのような気がして面白かったが、同時に何とも観念的で現実感に乏しい人物造形だったような気がした。仲代達矢が些か芝居がかった誇張で演じているからこそ了解できるものの、傲岸不遜な身体障碍者ながら年上の女たち(浦路洋子・新珠三千代)を翻弄するモテ男というのは、小説ならともかく映画にするのは非常に難儀な役どころのような気がする。また、田山老師(中村鷹治郎)にしても副司(信欣三)にしても、仏僧の偽善のほうは、ただ凡庸なだけで然したる悪とも思えなかった。 戸苅の悪趣味な挑発に乗せられる形で、一人合点の思い込みによって逆上していった溝口の放火の真意は何だったのだろう。映画の作りからすれば、海浜で火葬に付して送った亡父の失意に重ねて驟閣を葬ろうとしたということになるのだろうが、驟閣の美に見合った仏僧も参拝者もいないことへの憤りへの腹癒せに託けて、自死への餞をしようとしたようにしか受け取れなかった。こんなことで国宝が焼失したのかと唖然としたが、再建されたからこそ絢爛豪華な金箔に包まれた金閣寺が再現され得たのだと思うと、功罪半ばのような気がしなくもない。 それにしても、見覚えのあるニヒルなかっこよさとは対照的な、煮え切らぬようでいて、吃音を馬鹿にされると忽ちカッとなってしまう狭量の青年を、市川雷蔵が苛立たしいまでに好演していて感心させられた。タイトルに相応しいのは「炎上」よりも「逆上」だったのかもしれないなどと思った。 | |||||
by ヤマ '13.12.15. 龍馬の生まれたまち記念館 | |||||
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