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『ばかもの』 | |||||
絲山秋子 著<新潮社> | |||||
映画化作品を観たときの日誌に、「大学生を惑わせた年上女としての負い目も手伝って、敢えて訣別を自らにも強いる形で選択し」と書いた別れの夜の公園の場面は、原作でもそのとおりだった。 「額子が去った衝撃と、現在の自分の姿をヒデは同時に受け止めることができない。額子がふざけて、ケヤキの木の後ろにヒデの両腕をまわして手首をベルトでしばったのだ。額子の奴、そのままほどかずに立ち去ってしまった。だけどふざけてやったことなんだから、今だってふざけているのかもしれないしだったら戻ってくるかもしれないし。 いや、戻ってこない。 ヒデは取り残されている。ボクサーパンツを膝まで下ろされて、無残に縮こまった下半身を晩秋の夜風にさらして立っている。もちろん手首はずっとよじって、体も揺すって逃れようとしているが、額子が縦横に縛りつけたベルトはびくとも動かない。助けを呼ぼうにも、その前に大事なものをしまわなければいけない。見知らぬ人に助けてもらうのも恥ずかしいが友だちだったらもっと恥ずかしい。警察が来たら俺、わいせつ物陳列罪になっちゃうんだろうか。確かにわいせつ物は俺のブツだが、陳列したのは額子なんだ。でもそれじゃあ額子におもちゃにされて捨てられちゃったみたいで、でもそうじゃなくて、絶対違っていて、でも俺だけの思い込みかもしれなくて、どうせ他人になんかうまく説明できやしない。」(P25) 映画では描かれなかった、どのようにしてこの苦境を逃れたか知りたくて読んだという面もある原作だったのだが、少々意表を突かれる呆気なさだった。ヒデのアニマとも言うべき“想像上の人物”の気配を感じるなかで、「どんな肌が触れることもなく、これ以上手首を絞めあげることもなく戒めが解かれた。ヒデは自由の身になった。腕がしびれてしばらくは何もできない。木の後ろを覗きこむがそこには誰もいない。ヒデのベルトさえも落ちていない。あわててボクサーパンツを引き上げ、ジーンズの前を閉め、二三歩歩いてベンチに腰を下ろす。長い息をつく。」(P44)というものだった。 映画日誌に「映画の序盤で額子(内田有紀)の発した「ばかもの」に微笑み、最後の場面でヒデ(成宮寛貴)の零した「ばかもの」が何だか沁みてきた。山中の川の流れと木の枝の伸び具合に、ただの風景とは異なる表象が宿っていたような気がする。」と綴った部分は、原作にもそのとおりに描かれていたが、その味わいにおいて、映画化作品は原作以上だったような気がする。 「なんで額子が自分と付き合ってくれているのかわからない。自分が若いからか。若い男が好きなのだろうか。でもヒデにとっても二十七歳の額子の体は、すごく、いい。同世代の女の子よりずっと、いい。」(P7)との部分を読んで、遠い日の記憶をくすぐられるようなものを感じた。映画化作品にこの台詞はなかったような気がするものの、僕が『ばかもの』に思いのほか魅せられたのは、この感覚が映画に宿っていたからなのかもしれないと思った。 映画では、ヒデにセックスの醍醐味を教えたのも、酒を教えたのも額子であることが明示されていたが、原作では酒は必ずしもそうではないようだった。また、曰くある“平成11年の誕生日の印字の付いたハズレ馬券”のエピソードもなかった。映画化作品のほうが僕はより良くなっていると思うのだが、原作を読んで改めて強く意識させられた部分もあった。 それは、人を溺れ込ませるものとして、セックスと酒と宗教が併置されているなかでの、宗教と酒の闇の部分と対照的なセックスに対する肯定感だった。官能性を意識的に排し、むしろ健康体操か何かのようなお馬鹿なまでの開放感があって、笑える明るさが好もしい。ネユキとヒデには、そういう関係自体がなかったし、翔子とのセックスは原作ではいっさい触れられていなかったような気がする。読んでいるうちに、もう一度、映画化作品を観てみたくなっていた。 | |||||
by ヤマ '13. 6. 6. 新潮社 | |||||
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