| |||||
『あぜ道のダンディ』 | |||||
監督 石井裕也
| |||||
去年観た『川の底からこんにちは』の「中の下」の次は、「依然として後方」だったわけだが、脚本・監督を担った二十代の青年に五十男の悲哀を謳われてもという思いがしなくもないものの、あまり嫌味や小賢しさを感じなかった。 題名とは裏腹に「一体どこがダンディなんだ?」というような主人公の宮田(光石研)の草臥れ加減と幼稚さに対する、幼馴染みの真田(田口トモロヲ)の余りに健気な友情ぶりに、ある種の強迫感があるような気がして、人生における“自分が居てやらねばと思える愛しい相手”という存在の必要性をつくづく感じ、真田の境遇がいちばん淋しいことに思いが及んだ。 そのこと自体は、五十男であろうがなかろうが普遍的なことだから、脚本・監督を担った二十代の石井裕也が五十男を借りて表白していても、そこに違和感を覚えるようなものではないということだったのだろう。7年にも及ぶ老父の介護のなかで会社を辞め奥さんにも去られ、子供もないなかで、ひとりぼっちになった真田にとって、宮田父子の存在は、ある意味、生の拠り所だったような気がする。もしも彼がその状況になければ、あの宮田にあそこまでは付き合えてなかったはずだと思った。 淋しい人ほど人に優しくなれるというのは、きっとそういうことなのだろう。そして、そうなれる相手を得られなければ、人は淋しいと荒んでいくしかないのではなかろうか。どちらに転ぶかは、ある種、運次第なのかもしれない。そういう意味では、真田にとって宮田は、ますます掛け替えのない存在になるわけだ。そして、宮田は自ら言うように「依然として後方につけている」からこそ、真田にとってのそういう存在になり得たということなのだろう。人の存在価値、存在意義というものは、なかなか一筋縄ではいかない。パッとしないからこそ、役立っている場合があるのは間違いない。 しかし、五十男のそれを二十代の若者に言われたくないような気は、やはりする。そういう意味では、確かに感謝してはいたのだろうが、俊也(森岡龍)は少々出来過ぎだし、いくら衒いがあったにしても、そういう息子の序盤での父親に対する黙殺ぶりには少なからぬ見下しまでもが漂っていて、終盤との落差が大きすぎ、少々わざとらしい気がした。とはいえ、そこには真田の面接が功を奏している部分がなければ、話として成立しないのだから、多少の落差は逆になければならないものだったように思う。 そして、俊也や桃子(吉永淳)に改めての気づきを与え、そういう落差を生み出させたものこそが、真田の面接だったのだから、“あぜ道のダンディ”とは、すなわち真田のことだったような気がする。 | |||||
by ヤマ '11.11.13. 民権ホール | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|