【午前十時の映画祭】
『風と共に去りぬ』(Gone With The Wind)['39]
監督 ヴィクター・フレミング


 最初に観たのは、十代の時分の確か水曜ロードショーで、亡き水野晴郎さんが「遂にこれをTVでお届けできることになりました」と、ちょっと得意気に話しつつ、鳴り物入りの設えで2回に分けて放映されたものだったような気がする。その後、'82年にスクリーンで観たのを最後に観てないように思うから、約三十年ぶりの再見だ。三十年前は、今ほど小まめに日誌を綴っていなかったから、映画日誌としては残ってないけれど、当時の日記を開いてみると何度観ても、その重厚なドラマには感動する。いいとかわるいとか、美しいとか不細工とかを超えた“生きる”ことの素晴しさ、力強さを感じる。スケールの大きな映画だった。とだけ記されていた。何度観てもと書いているが、それほどに繰り返し観た記憶はなく、初見ではないといった程度のものに過ぎないように思う。

 ただ今回再見しても、稀代のヒロインとも言うべきスカーレット(ヴィヴィアン・リー)については、三十年前の日記に綴ったとおりの“生き方の善し悪しや美醜を超えた人物造形の素晴らしさ”に打たれ、併せて今回は、スカーレットの“強さ”とは対照的な“靭さ”を体現していたメラニー(オリヴィア・デ・ハヴィランド)が嘗て以上に心に残った。

 キャプテン・バトラー(クラーク・ゲーブル)がスカーレットに語った言葉通りには、夫アシュレー(レスリー・ハワード)とスカーレットとの関係を純粋に信じているわけではないなかでの彼女の対処の仕方は、やはりバトラーが冠したとおり“真の淑女”を全うした生涯だったと思う。その苦衷を窺わせぬ“靭さ”は、スカーレットの“強さ”の源泉である“一途さ一徹さ”による功罪を併せ持ったものよりも、メンタル的には過酷なものだったのかもしれない。近親者からさえも聖母のごとく見られる窮屈さは、他方で「貴女様なら旦那様を説得できるかもしれない」とオハラ家の黒人メイドのマミー(ハティ・マクダニエル)に言わせるだけの徳性を認められている甲斐とともに、彼女が自らの意思で引き受けたものだったのだろう。

 また、三十年前の記憶にあった印象からすると、圧倒的にカッコ良かったバトラーが、思った以上に弱さ至らなさを晒していて少々意外だったのだが、その分、人間ドラマとしての奥行は深いわけで、実に大した作品だと改めて思った。

 南部の側から描いた物語だからこそのものだが、こういうドラマを観ると、奴隷解放を掲げて起こした南北戦争も、結局のところ、イスラム世界の民主化やテロに屈しない正義を掲げて行なっている昨今の戦争同様に、所詮は利権争いが主要因のものだったのであろうことに気づかせてもらえる。歴史は常に“勝者の側から語られる記録”であるとしたものだから、南北戦争についても、北部の側からの見方が一般的になるのだろう。奴隷解放を謳いながら、黒人への対処の仕方や人権感覚において、北軍側が南軍側よりも格段に人権意識に優れているようにはとても思えない描かれ方だった。

 再見前からの記憶として最も強く印象に残っていた場面は、何といっても、インターミッション直前のシーンだ。北軍に蹂躙され荒れ果てたタラに帰ってきたスカーレットが赤土の大地を踏みしめながら、盗みをしようとも人殺しをしようとも二度と家族を飢えさせはしないと決意を固める気迫に満ちた場面なのだが、僕の記憶では、もう少し下から見上げる角度で、大地に踏ん張るスカーレットの姿がかなり大きく映し出されていたはずなのに、握りしめる拳による控えめな強調はあっても、そんなに仰々しくなかった。鳴り響く名曲タラのテーマが彼女を大きく見せたのだろう。

 優れた作品というのは、観る側の想像力を刺激してくれるばかりか創造力さえも付与してくれる力を持っていて、先日、三十年ぶりに再見したばかりのディア・ハンターや七年前に二十年ぶりにディレクターズカット版という形で再見する機会を得たアマデウスでも思い知らされたのだが、本作のように複数回観ている作品でさえも、観てないものを観たものとして記憶させる力を持っていてこその傑作なのだろうと改めて思った。

 優れた詩や小説が読ませる行間や触発する視覚イメージというものを、優れた映画作品は文芸と同様に備えていると僕は思っていて、それが事実と違うか否かということは、よく論争になる歴史的事実の当否正誤と同様に、一筋縄ではいかないところがあると感じている。ただ歴史的事実と異なって映画の場合は、映写によって担保されている完全な再現性が物理的に検証を可能にしているわけだが、そうであることを以て単純に正誤にばかり囚われることには余り面白味がなく、むしろ記憶違いを生じさせる現象そのものに目を向けることのほうが、遥かに興味深いように思う。映し出されない限りはフィルムでしかないムービーは、幻として定着を拒んでいるイメージそのものに作品としての本質があり、さればこそ、最終的に作品を完成させるのはスクリーンを見つめるという形で参画している観客に他ならないと僕は常々思っている。ビデオやDVDといった媒体の出現によって、その“幻”度を大きく減じさせた点が、映画という表現における変容として、実は一番大きな問題だったのではないかという気がしている。反復再生は、作品研究には非常に有効な手段だが、作品鑑賞においては、映画という表現における時間芸術の側面を大きく損なうものとして、僕自身は拒んでいるところだし、民放TV放映でCMが入るのが嫌で仕方がない理由もそこにある。

 それはともかく、今回、最も心に残ったのは、結婚し愛娘ももうけながら、互いの意地っ張りが夫婦関係をうまく運べないでいる二人が危機的状況のなかで、千載一遇の関係修復のチャンスを逃してしまう場面だった。愛娘をタラから引き離せなかったバトラーの酔いに乗じた勢いに任せた強引によって、二人が久しぶりにベッドを共にした翌朝、スカーレットが満足気な笑みと共に目覚め、メイドのマミーから「ご機嫌ですね」とまで言われていたのに、かつての“札つき者”時代とは違い、すっかり“名士”として暮らすようになり紳士的になっているバトラーから、前夜の行状を非とする言葉を悔恨という形で表明されたことによって、スカーレットがたちまち態度を硬化させていた。二度に渡る結婚歴を有するスカーレットの拒む結婚の申し入れをキスひとつで翻させた嘗てのバトラーなら、決して見誤ったりはしなかったはずの致命的エラーだったような気がした。



推薦テクスト:「映画ありき」より
https://yurikoariki.web.fc2.com/film_5.html
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/archives/282
by ヤマ

'11.10. 2. TOHOシネマズ8



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