『悪人』
監督 李相日

 映画化作品ではない原作の『告白を読んで、誰もが真っ当な感情を備えた人間であり且つ病み傷んでいることがひしひしと感じられたことに打たれるとともに、その卓抜した人間観と倫理感覚に溢れた作品世界に魅せられたが、恐ろしく単純化した映画『告白』ではすっかり失われていたその部分を、ちょうど対照的に、映画作品として真摯に描出しようとしていたのが本作だと感じた。
 増尾(岡田将生)や佳乃(満島ひかり)、祐一の母親(余貴美子)やその従兄弟と思しき解体業社長(光石研)も含め、登場する全ての人物像にリアルで確かな存在感を与え、忘れがたい演技を引き出している演出に最も感心した。

 表層で騒ぎ立てるだけのマスコミレベルでは、おそらくコメンテーターがTVで賢しらぶって、強引な誘拐に仕立てあげて“ストックホルム症候群”の一言で片付けてしまうであろう光代(深津絵里)の思いや、育った家庭環境や風体からろくでなしにされてしまうであろう祐一(妻夫木聡)の人生に深く分け入り、“人を必要とする人間の生”と“心を持つが故にダメにもなる人間の本性”に迫っていて見事だった。そして、「悪人とはなにか」を問い直したときに、悪で100%満たされた人間などいようはずもなく、せいぜいで“悪行を為した人”としか言いようがないとすれば、この世に悪人ならざる人など誰一人いないことを示していたような気がする。

 そういう意味では、田んぼの中を国道が走るだけの何もない田舎で人生に喜びも希望も持てないでいた光代や、国道すらなく先への行き場のない海が迫っているだけに余計に強い閉塞感に囚われていた祐一と同じく、老舗高級旅館の跡取り息子である増尾もまた自分の器を超えた重荷に囚われ、そこから逃れられない人生に喘ぎ、卑小感とコンプレックスに苦しんでいたのだろう。だからこそ、佳乃に対し尊大に構え粗暴な振る舞いに出たり、彼女の父親である佳男(柄本明)から詰問された件をネタにして顔を引きつらせながら笑い飛ばそうとしたり、自分に非がないことについて友人の同意を求めて止まなかったりしたのだという気がする。
 佳乃は佳乃で少々若くて可愛いばかりに、モテないでいることやレベルの高い彼氏がいないことに耐え難い強迫感を覚えつつ“上昇志向”に囚われて一杯一杯になっていたのであろう。そのことが、増尾に媚を売る卑しさや女友達に見栄を張り祐一を見下す高慢、失望と怒りから祐一に八つ当たりをする際の下品さを招いてしまうわけだが、それは、先ごろ観たばかりのカラフルで宮崎あおいが声演していた佐野唱子が、小林真から押し倒されて眼鏡が飛んだときに「ブスは眼鏡を取ってもブスだな」などと酷いことを言われても、それをとても悲しく感じながらも、耐え難いほどの衝撃は受けずに、その後も冷静を保っていられたのとは違って、そうなりやすくなる面があるような気がしないでもない。

 そうしてみると、二人についても悪というよりは哀れのほうが色濃くなってくるわけで、そういったことに思いが及べば、彼らとて、事件を起こした祐一や光代についてマスコミが報じるであろう人物像が決して実像ではないのと同様に、憎まれ役の増尾、汚れ役の佳乃と受け取るべきものではなくなってくるし、同じことが祐一の母である依子についても言えるような気がしてくる。

 本作がそのような感慨を抱かせてくれるのは、やはり祐一と光代を通じて二人の人生に深く分け入り、人を必要とする人間の生心を持つが故にダメにもなる人間の本性に迫っていたからで、とりわけ、祐一が幼い時分に母の言葉を信じてずっと待っていたのに裏切られた記憶との対照が効いていて、食料調達に出たはずの光代がなかなか戻らないのを待つ場面での葛藤が痛切だった。幼い時とは違って、光代の帰還を信じきることは叶わなくなっていたところに、彼女が随分と遅れながらも戻ってきたことで、祐一は強い衝撃を受けたのだろう。パトカーのサイレンの音を耳にしながら、『汚れた顔の天使』ばりに光代に見限らせるような行動に出るのだが、マスコミ報道では間違いなく“警察を誘き寄せたことへの怒りと逆上で発作的に”などと報じられるに違いない。この部分が原作でもそうなっていたのかどうかは大いに気になるところだ。原作者自身が脚本を書いているだけに、原作に忠実であれ、映画化に際しての脚色であれ、余計に興味深いことのように思う。

 それにしても悩ましいのは、祐一が自首しようと警察に向かったときにクラクションを鳴らして呼び止め、一緒にいたいと告げて彼に翻意させた光代の想いが、祐一の魂の蘇生には不可欠のことながらも、社会的には彼の悪行を深めさせることにしかならないことだ。法廷審議に際しては、逃げた事実よりも逃走中に何が起こっていたのかを問題にする視点が必要なことに改めて気づかされたように思う。

 もう一つ印象深かったのは、佳乃の父親と祐一の育ての親である祖母の房枝(樹木希林)の姿だった。自分自身が、子や孫を持つ身になっているので、やはり身につまされるところがあったのだろう。彼らの悔しさは推し量りようがなく、己が全人生を天秤に掛けられたほどに重く、それだけの悔しさに対して、ただ屈しているだけではいられないからこそ、直接的な悔しさの筋は違っても、悔しさの回収に向けた行動を起こさずにはいられなかったように、僕の目には映った。房枝は、健康商法とも呼ばれる悪徳商法の脅しに屈した被害を取り戻すための直談判に赴くし、佳男は、刑事的には何らの責を問われないで済む増尾に誅罰を加えに赴くわけで、その止むに止まれぬ心のありようが万感を以って迫ってきたように思う。
 手塩に掛けて育ててきたつもりの“優しい祐一”がこんなことになったという事態そのものから受けた悔しさについては、メディアを前にしても太刀打ちの仕様がないわけだが、じっとしてはいられない悔しい思いの強さは、ヤクザの元に直談判にいく怖さを凌駕するほどに房枝を駆り立てていたし、殺された佳乃の命が二度と還ってこないことへの佳男の悔しさは、娘の行状が嘆かわしい姿で晒されることになっただけに、余計にその“父親の娘への想い”が際立つばかりか、非常に示唆に富むものとなって浮かび上がっていたような気がする。

 世代論に帰結させたりしないよう、佳男に同調する若者の存在を配する工夫にも怠りなく、登場人物の誰もが本当に身近に迫ってくる秀作だったように思う。たいしたものだ。



参照テクスト:掲示板談義の編集採録
参照テクスト:吉田修一 著 『悪人』読書感想
参照テクスト:吉田修一 著 『さよなら渓谷』読書感想
参照テクスト:酒井順子 著 『負け犬の遠吠え』読書感想

推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
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推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
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by ヤマ

'10. 9.18. TOHOシネマズ3



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