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シネ・ヌーヴォ“石井輝男の世界”から 『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』['69] 『徳川女系図』['68] | |||||
監督 石井輝男
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江戸川乱歩が昭和二年に『新青年』に連載した『パノラマ島奇談』は、彼の作品群の中でも特に気に入っている小説で、その非常にビジュアル的な作品世界を映画化するとどうなるか大いに心惹かれていたのだが、肝心のパノラマ現出を作り手が放棄していた。それは予算的な限界を感じてのものだったのか、あるいは昭和も四十年代に入って、そもそもパノラマ現出では千代子が恐れ戦いた異様を観客に示しえないと判断したのか不明ながら、『恐怖奇形人間』は、ある意味、乱歩より過激で、ある意味、乱歩に遠く及ばぬ凡庸さを露呈させているように感じた。 乱歩より過激な部分というのは、改造の対象を“大自然”から“生きている人間”に変えていた部分だが、乱歩の原作では、そこに「かれの考えによれば、芸術というものは、見方によっては自然に対する人間の反抗、あるがままに満足せず、それに人間各個の個性を付与したいという欲求の表れにほかならぬのでありました。それゆえに、たとえば、音楽家は、あるがままの風の音、波の音、鳥獣の鳴き声などにあきたらずして、かれら自身の音を創造しようと努力し画家の仕事は、モデルを単にあるがままに描き出すのではなくて、それをかれ自身の個性によって改変し、美化することにあり、詩人はいうまでもなく、たんなる事実の報道者、記録者ではないのであります。 しかし、これらのいわゆる芸術家たちは、なぜなれば、楽器とか、絵の具とか、文字とかいう間接的な非効率的なしちめんどうな手段により、それだけで満足しているのでありましょう。どうしてかれらは、この大自然そのものに着眼しないのですか。そして、直接大自然そのものを楽器とし、絵の具とし、文字として駆使しないのでありましょう。」(春陽文庫P8)との、“表現行為たる芸術に対する挑発”があったけれども、映画化作品では、菰田源三郎の父親丈五郎(土方巽)自身の奇形に動機があって、その負い目や妻の裏切りに対して抱いた奇形に伴う屈折が、異常世界を作り出すエネルギーになっていたように感じられた。 それは、芸術観の実現よりも遥かに普遍的で凡人にも理解の及びやすいものであるが故に、いかに過激で異様な行動に打って出ていても、動機としては凡庸という他ないのだが、そのこと以上に常識的な凡庸さを露呈させていた部分は、異様なものの持つパワーに恐れ戦きながら、同時に魅せられる千代子の心理を描かずに、早々に『屋根裏の散歩者』をなぞって死なせていたことだった。 『パノラマ島奇談』に描かれた「…千代子の心は、人間界の常套をのがれ、いつしか果て知れぬ夢幻の境をさまよい始めていました。…親子も、夫婦も、そのような人間界の関係などは、かすみのように意識の外にぼやけてしまって、そこには魂に食い入る人外境の蠱惑と、それが真実の夫であろうがあるまいが、ただ目の前にいるひとりの異性に対する、身も心もしびれるような思慕の情のみが、やみ夜の空の花火のあざやかさで、彼女の心を占めていたのです。」(P73)、「彼女の異様なる心理をなんと解すべきでありましょう。彼女は刻一刻と深まっていく恐ろしい疑惑と同時に、それと併行して、一方ではそのえたいの知れぬ人物に対する思慕の情も、また、ますます耐え難きものに思われてくるのでありました。」(P80)といった女性心理については、『恐怖奇形人間』では一顧だにされていなかった。しかも、千代子が広介に誘われ見せられたこの世界を“大自然を改造した異様なパノラマ”から“異常性愛の世界”に置き換えると、そのまま他の乱歩の作品群にも繋がる女性観を示し始めるとともに、芸術的な創造行為と異常性愛の行為を重ねるイメージの提起にもなってくるわけで、そういう過激な挑発の部分を割愛するのは、『パノラマ島奇談』の核心を外していることに他ならないような気がする。 そのことに替えて創作していた、兄妹の近親愛をタブーと意識し心中を以って貫いた広介(吉田輝雄)秀子(由美てる子)にしても、妻への想いの強さがもたらしたとも言える丈五郎の動機にしても、最後には悔悟する姿にしても、いずれも余りに常識的で、真っ当な帰結になっていたような気がしてならず、原作小説の持っていた“狂気の体現”とは比較にならないことのように思った。原作の広介は、行動だけではなく人物そのものが逸脱しているのだが、映画化作品の広介や丈五郎は、行動に逸脱はあっても、その心情はむしろ純真とさえ言えるものとして造形されていたような気がする。 こういう普通さというか真っ当な凡庸さは『徳川女系図』にも反映されていて、異様な世界や行為は数多く描き出されるものの、そこに登場する人間たちに異常な人物は、ただの一人もいなかったように思う。むしろ綱吉(吉田輝雄)の陥っていた不信と苦悩など、幼稚なまでの純真さに彩られていたような気がする。 そのなかにあって、度外の恐ろしさも崇高さも、発揮していたのは常に女性であって、男はひたすら凡庸なだけだったように思うが、最後の牧野備後守(小池朝雄)の諫言は身命をなげうってのもので、むしろ教訓的な結末を迎えていたから、今回の特集企画のリーフレットに記されていた「“異常性愛路線”と呼ばれた石井輝男監督によるカルト・シリーズ第1弾。」というのは、あくまで石井監督のカルト作品の第1弾ということであって、本作が、言うところの異常性愛路線の作品であることを意味しているのではなかったようだ。教育的映画とまで断じるつもりはないけれども、場面描写はともかく、少なくとも物語的には至って真っ当な作品だったように思う。 それからすれば、ある意味、普通人の起こす、普通人のなかにある“特異”を描きたいというのが石井輝男の意思だったのかもしれないと思わないでもないが、大衆娯楽を旨としたB級映画製作のうえで、作る側にも観る側にも使えるイクスキューズを意識して、真っ当な自主コードとしてそうしていたのではないか、とも思わずにはいられないところがある。もう少し数多く他の作品群も眺め渡してみないと判じにくいところではあるが、僕には、後者のような気がしてならなかった。 それというのも、もし前者であるならば、半ば無理やりとも言える形で「かようにして、人見広介の五体は、花火とともにこなみじんにくだけ、…おのおののけしきのすみずみまでも、血潮と肉塊の雨となって、降りそそいだのでありました。」(P127)で終える原作と同じエンディングに持って行っていた『恐怖奇形人間』において、オープニングロールも蜘蛛のクローズアップで始めておきながら「たとい、それが火をもってえがかれた絵とはいえ、一匹の大グモがまっ暗な空をおおって、もっとも不気味な腹部をあらわに見せて、もがきながら頭上に近づいてくるけしきは、ある人にとってはこよなき美しさであろうとも、生来クモぎらいの千代子には、息づまるほど恐ろしく、見まいとしても、その恐ろしさに、やっぱり不思議な魅力があってか、ともすれば彼女の目は空に向けられ、そのつどつど、前よりはいっそう間近くせまる怪物を見なければならぬのでした。 そして、そのけしきそのものよりも、もっともっと彼女を震え上がらせたのは、この大グモの花火をも、彼女はいつかの経験のうちで見ていた、あれも、これも、すっかり二度めだという意識でした。」(P102)という部分を割愛したりはできないはずだと思う。 恐れ戦き拒みながらも、魅せられつつ、二度目という既視感を覚えるのは、それこそ普通人たる千代子のなかに特異が潜在しているからに他ならず、原作のこの核心を描かずして前者の立ち位置にあるとは到底言えないように思う。作り手自身は、原作の核心がそこにあることを知ればこそ、オープニングに蜘蛛を映し出すわけで、それでありながら、映画化作品の千代子(小畑通子)や広介に、丈五郎の作り出した世界に魅せられる部分を些かも与えていなかったのは、後者ゆえのことのような気がした。 *『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』['69] 参照テクスト:地元での再見(2019. 2.20.) *『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』['69] 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060922 | |||||
by ヤマ '10. 8.28. シネ・ヌーヴォ | |||||
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