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『必死剣 鳥刺し』 | |||||
監督 平山秀幸
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全く以ってサムライというのは、ろくなもんじゃないという印象が残った。作り手は、藤沢作品の枠組みを借りて「侍は、どれもこれもがみんな独善性のなかにある」ということを言いたかったのだろうか。そのわりには、藤沢作品らしい美学を描こうとしている趣もあり、妙に後味が悪いと言うか、すっきりしない物語だったような気がしてならなかった。 画面はしっかりしていて、役者の演技にも充実感があったにもかかわらず、そのような印象が残った一番の原因は、脚本と演出にあって、三左エ門(豊川悦司)の人物像にブレが大き過ぎて、彼の想いが何処にあるのか定まらず、藩主たる右京太夫(村上淳)の性悪側室たる連子(関めぐみ)を刺殺したのも政道を正すことよりも、まさに里尾(池脇千鶴)が呟いたように「死に場所を求めて」のことだけだったように思えてくる結末だった。 もしも、責務を負った組織人の被った不条理と命のはかなさのなかでの気概を描こうとしたのであれば、藩主よりはましな治世を行ないそうな御別家たる帯屋隼人正(吉川晃司)を討った以上、鳥刺しで狙う相手は右京太夫であるべきで、そうはしないのは三左エ門の眼中に“民の存在がない”からに他ならなくなる。また、責務を負った組織人ゆえの不条理と命のはかなさを主題にするのなら、津田民部(岸部一徳)は、その必死剣から主君を庇おうとして諸とも鳥刺しにされる顛末にならないといけないように思う。 原作小説がどうだったのかを僕は知らないけれども、民部に敢えて腹黒い黒幕のような色づけを強調したことで、三左エ門の必死剣が、上役に命を弄ばれた下役の“蜂の一刺し”の様相を呈することになって、かなり安っぽくなったような気がする。上役たる民部には、確かに三左エ門の命を弄んだことになったとしても、真摯に“御家大事”の御役を全うしようとしたがゆえということが第一義のものとしてあって、同時に藩随一の剣客を惜しむ気持ちが侍としてあるなかで、彼の役職に応じた“三左エ門以上の不条理”を負わせなければならないところだったように思う。 クライマックスの殺陣に力が入っていて応分の効果を挙げていただけに、また、民に心を寄せながら無為無策で、少々思慮の足りない頼りなさが窺えながらも、民部のような知略に長けた家来を得れば、それなりの善政を敷いたようには思える隼人正を吉川晃司が好演していただけに、必死剣の働きが老獪な上役への私怨と意地に使われてしまっては、その了見の狭さが独善性やナルシズムを浮かび上がらせることになるような気がする。そこのところに、余計に落ち着きの悪さを覚えたのだろう。 そして、三左エ門の独善性やナルシズムが浮かび上がったおかげで、隼人正の義心についても、あの無為無策ぶりからは、政権交代への野心の為せるパフォーマンスに過ぎない身勝手さのほうを想起させることになり、また、民部が悪意を露呈させたことによって、彼の囚われていた“御家大事”が家臣としての大義というよりも、藩の要職にある自己保身に過ぎないものとして映ってくるようになり、著しく興を殺いだように思う。 だが、脚本としては、保科十内が三左エ門に「連子さまを殺めたところで結果は何も…。果たして良かったのかどうか」と語る場面があったように、サムライのすることはサムライにとってのものでしかなく、民部の“御家大事”が稀有な剣客を惜しむことにも、善政にも繋がらないことを示す視点が確かにあった。そのことがまさに作り手の企図したところであって、そこに“サムライなるものの独善性と欺瞞”を描こうとしていた確信犯だったのなら、三左エ門が亡妻(戸田菜穂)の姪たる里尾と過ごした一夜に際して、自分から部屋を訪ねて行かせたことにも納得がいくのだが、それならば、全編通じて演出側の施していた人物造形は、脚本の意図を読み誤っていたことになるような気がする。そのあたりのどっちつかずの中途半端さが、「妙に後味が悪いと言うか、すっきりしない物語だった」との印象を残したのだろう。 やはり里尾との一夜は、彼女のほうから忍んで行ったものに対して、三左エ門がその覚悟の強さに打たれて受け入れるものでなければ、想いを伝えられた湯殿でたしなめた場面が生きてこなくなるように思う。『シャネル&ストラヴィンスキー』のココがそうだったように、『赤目四十八瀧心中未遂』の綾がそうであったように、やはり映画では、女性から求めるのでなければ嘘だと思った。映画というのは、そういうものだという気がする。 | |||||
by ヤマ '10. 7.25. TOHOシネマズ1 | |||||
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