『闇の子供たち』
監督 阪本順治


ヤマのMixi日記 2009年03月17日01:31

 眠くなったので、とりあえずこれだけ。
 南部の顛末に違和感アリ。きっと原作は違ってるだろうなー。


*コメント
2009年03月17日 06:45 (TAOさん)
 原作はぜんぜん違ってます。違和感ありますよねー。あれじゃ。


2009年03月17日 18:50 ヤマ(管理人)
 やっぱ、そうでしたか。>原作
 僕は、この作品、南部の視点から運ばれる物語であるよりも、例えば、児童売春組織の一員でありながら、児童売春の惨状に嘔吐を催していた、生体献体のセンラーを病院に連れてきていた男の視点とか、あるいは、過酷な苦悩と葛藤の末の選択をしていた梶川からの視点とか、さらには女性所長ナパポーンが救出しセンターに勤めるに至っているチャンプーの視点とか、そういったところから運ばれる物語を観てみたかったです。もっとも、その点は、原作でもそうはなってないと思います。
 先ごろ読んだばかりの『夜を賭けて』でも、決して金義夫ではない書き手のポジションを明らかにしていました。この作品の原作でも同様に、目撃者としての立ち位置を取っているでしょうね。軽々に対象の側のふりをしないというのは、書き手が自らに課していることのような気がします。
 きっと、そのあたりにナーバスにならざるを得ない個人史が、書き手自身のなかにあったろうことが推察されるように思います。いずれ原作を読んでみたいと思っています。


2009年03月17日 22:01 (TAOさん)
 原作の視点はかなりヤマさんのお望みにちかいものですよ。少なくとも南部の視点から一方的に書かれたものではないですし、軽々しく対象の側のふりはしていません。文庫で手にはいるので、ぜひお読みください!
 この映画は、勇み足のきらいがずいぶんありましたが、原作を読むきっかけとなっただけでも意義があったなと思ってます。


2009年03月20日 00:51 ヤマ(管理人)
 今、高村薫の『照柿』を通勤読書に充て始めたところなので、その次にはこれを読むことにしようかな〜。 原作を読むきっかけをくれたことで映画を褒めたくなるほどに、その原作は、すぐれものなわけですね。楽しみです。




2009年12月27日23:03 ヤマ(管理人):原作小説感想文

 3月に観た映画の原作が気になりながら、読むのが半年以上も遅れてしまったが、なかなかにずっしりと響いてくる小説だった。映画のほうで主題とされていた臓器移植に関しては、鈴木砂羽の演じた梶川みね子は登場するものの出番少なく、佐藤浩市の演じた夫克仁に至っては、登場すらしない。そもそも臓器移植の話が出てくるのが、P400に「(了)」の文字が打たれている単行本のP272になってからであり、大半がタイの貧困層の児童が置かれている凄惨な状況についての描出に費やされていた。とりわけ幼児売春に関する驚愕の生態が生々しく綴られており、国際社会が如何にそのことに対して無頓着で無関心であるかが訴えられていたように思う。そして、そこに梁石日らしい鋭敏な嗅覚で、タイにおける山岳少数部族に対する差別感、欧米や日本などの金満国が東南アジアに向ける差別感を嗅ぎ取っていたような気がした。

 チェンマイで幼児売春に売られた子供たちやストリートチルドレンが他にいても、ヤイルーンやセンラーが北部山岳地帯の“山の民”の子供たちでなければならないのはそういうことであり、幼児売春の客たちが専ら外国人であり且つ、富める先進国の幅広い人々に設定されていたのもそれゆえなのだろう。すなわち、性交観察愛好者のアラブ男(P37)や薬物嗜好のフランス男(P78)、ビデオ撮影で幼児ポルノの製作を兼ねて励む日本人男(P87)、「女性客の相手をする十歳前後の男の子の性器にホルモン剤を注射し、性行為を楽しむ」ために少年を養子縁組によって愛玩物として買い取ろうとするドイツ人夫妻(P152)、同じくホルモン注射で膨張させた少年との3Pを愛好するアメリカ女のカップル(P164)らが少年少女の性器や肛門を蹂躙し、時に死に至らしめる場面が執拗に描かれていた。年代も性別も多岐にわたっている様が描かれていたのは、ペドフィリアではなく「ペドファイル(幼児性愛者)」(P78)と記されていた嗜好者による非道が、国籍や性差・年齢に特化されるものではないことを示すための周到な配慮だったように思う。

 それにしても、一九九六年現在の国連の統計によりますと、世界で十五歳未満の子供が売春させられている数は二百五十万人に達しているとのことです。さらにストリートチルドレンの数は二千万人とも三千万人とも言われています。これらの数字が根拠のあるものかどうか議論の余地があるとしても、タイにおける幼児売春の数は、一万人足らずであると主張する政府の報告には怒りを覚えます。責任回避のためとはいえ、あまりにも現実を無視した報告です。そして各国の政府と民間調査との数字の大きな隔たりは、この問題の本質が国によって隠蔽されていることを物語っています。

 幼児売春の値段は都市と地方とではちがいますが、チェンマイから百キロ四方の売春宿では一回につき三十バーツ以下です。中にはトイレの使用料と同じ料金であったり、コカコーラ一缶の値段にも足りないこともあるのです。科学技術の進歩によって、やがて人類は火星にまで探検しようとしている時代に、幼児売春を強いられている実態は古代の奴隷制社会よりもひどい状態なのです。まさに幼児売春は性奴隷以外の何ものでもありません。

 文化と科学の進歩とはうらはらに、政治と社会の腐敗と退廃は悪化の一途をたどっています。いったい何のための文化なのか、何のための科学なのか、そして政治は何のためにあるのか、という根源的な問いが欠落しているのです。世界のあらゆる問題と矛盾は結局のところ弱者である女性と子供に集約的に現れています。暴力と性的虐待がもたらす子供たちへの人格破壊の影響は計りしれないものがあります。たとえ運よく、一人の子供が売春宿から救出されたとしても、その子は生涯にわたって性的虐待の記憶から逃れることはできないのです。

 こうした深刻な状況は、わたしたちが会議を開いている間にも進行しています。わたしたちにできることは各国の政府に対して強い意思表示をすること、さらに多くの人びとに実情を訴えることです。これは戦争よりも悪質です。なぜなら、戦争は敵対している相手が明確ですが、幼児売買や幼児売買春は姿なき敵であり、その戦場は全世界に拡大しつつあるからです。
(P68)とメアリー・クリストから報告された内容の凄まじさには目を剥く。

 社会福祉センターのナパポーン所長がこのまま見過ごすわけにはいかないわ。売春を強要されてエイズにかかった十歳の子供が清掃車でゴミ処分場に捨てられ、死ぬ思いで帰った村で焼かれたのよ。こんなむごいことが日常的にまかり通っているのよ。金持ちの犬や猫は葬式をしてもらい、お墓までつくってもらっているのに、貧乏な子供はゴミ処分場に捨てられ生きながら腐っていくのよ。こんなことが許されていいはずがない。…(P114)と売春組織を束ねているマフィアに歯向かう決意を固める状況は、とうてい僕などの想像の及ぶところではない。

 梁石日の主張は明確だ。信仰心の厚いこの国の人びとの間に、なぜこんなにも貧富の差があるのか、とナパポーンは怒りにも似た気持ちになるのだった。(P185)としているように、貧困と格差こそが諸悪の根源だと訴え、日本から大金を払って子供の臓器移植による手術を受けに行くことが、如何に個人的切実さが深く、我が子を愛するが故のことであろうとも、幼児性愛者が売買春に赴くことと寸分違わぬ現実を痛烈に描き出しているわけだ。先般必要な不便・非効率』と題する拙稿を地元紙に寄せた際に、携帯電話にかこつけて記したことにも通じるが、道が開かれれば、圧力も掛かるし、断念が遠ざけられる。前述のメアリー・クリストの報告にあった文化と科学の進歩とはうらはらに、政治と社会の腐敗と退廃は悪化の一途をたどっています。いったい何のための文化なのか、何のための科学なのか、そして政治は何のためにあるのか、という根源的な問いが欠落しているのですとの言に表れていた“科学の進歩”が本作において直接的に臓器移植を指しているのは明らかなように感じた。

 だから、映画化作品がストレートに“臓器移植”のほうに焦点を当てて製作されているのは、正鵠を射た脚色だったと思うのだが、なぜに江口洋介の演じた南部記者に個人的な贖罪意識とも取れそうな動機付けを与えたのだろう。原作小説の南部浩行について、映画の作り手が、日本のマスコミ記者としてのリアリティを覚えられなかったからかもしれないが、映画化作品での脚色は如何にも韜晦に満ちていて、失敗しているように感じた。




推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0912_1.html#yami
編集採録 by ヤマ

'09. 3.16. あたご劇場



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