『風が強く吹いている』を読んで
三浦しをん 著<新潮社>


 今年の箱根駅伝は、僕の母校が確か18年ぶりの総合優勝を飾ったと報じられていたが、駅伝ファンでもない僕でさえその勇名を知る“山の神童”柏原選手を擁した東洋大をよくぞ制したものだ。そんなこともあって一昨年、映画化作品を観て強い感銘を受けた風が強く吹いているの原作を読んでみた。そして、映画化作品が原作の持ち味を全く損なうことなく、むしろ補完的に、実に見事に視覚化された作品だったことに改めて驚嘆した。


 言葉での描出に長けた小説家がいかに言葉を尽くそうとも情報を伝えた葉菜子は、自分が泣きそうになっていることに気づいた。走る姿がこんなにうつくしいなんて、知らなかった。これはなんて原始的で、孤独なスポーツなんだろう。だれも彼らを支えることはできない。まわりにどれだけ観客がいても、一緒に練習したチームメイトがいても、あのひとたちはいま、たった一人で、体の機能を全部使って走りつづけている。(P237)とか、更にはぶれも歪みもない、完璧なフォーム。そこから繰り出される強さと速さが、「走りとはこういうものだ」と見るものに告げている。「うつくしいな」と清瀬はつぶやいた。魔物に魅入られたように陶然とする清瀬の横顔に、王子はちらりと視線を向ける。…完全なる美と力を前にして、できることは無に等しい。それを思い知らされるのはつらい。つらいけれど、見つめ、求めずにはいられない。むなしいと言い表すほかにない葛藤が、たしかに心に生じる。「努力ですべてがなんとかなると思うのは、傲慢だということだな」王子をなだめ、励ますように清瀬は言った。自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。「陸上はそれほど甘くない。だが、目指すべき場所はひとつじゃないさ」物理的に同じ道を走っても、たどりつく場所はそれぞれちがう。どこかにある自分のためのゴール地点を、探して走る。考え、迷い、まちがえてはやり直す。もしも答えが、到達するところが、ひとつだったなら。長距離に、これほどまで魅惑されはしなかっただろう。走の走りを見てむなしいと感じ、それでもまだ走りたいと願うことなど、到底できないだろう。完璧な走りを体現する走も。それを見て静かな喜びと闘志を瞳に湛える清瀬も。二人のレベルにはとても追いつけずとも、最後まで走り通した王子も。長距離の世界において、だれもが等価で、平等な地平に立っている。(P457)と綴られるような境地にまで導くほどの“完全なる美と力”を映像として視覚化し得たときの一目瞭然のインパクトは、百万言の及ぶところではないわけだ。


 だが、映画日誌にカケル(林遣都)の走る姿が美しく、ハイジ(小出恵介)の紡ぐ言葉が美しく、寛政大学陸上部の10人の織り成す物語が美しい。何だかとても美しく気持ちのいい作品で、出会いというものの掛け替えのなさをしみじみと感じた。と綴った作品のなかで、最も心に残ったものの一つとして言及した「長距離選手に対する、一番の褒め言葉がなにかわかるか」「速いですか?」「いいや。『強い』だよ」と清瀬は言った。(P159)との場面で提示された“強さ”についての、言葉としての反芻は、映画ではなかなか重ねにくいのだが、小説では主題として掘り下げていくことができる。

 清瀬の口調は、みんなを安心させる穏やかなものだった。「…あとはプレッシャーをやすりに変えて、心身を研磨すればいいだけだ。予選会でうつくしい刃になって走る自分をイメージして、鋭く研ぎ澄ませ」「詩的な表現だね」とユキが言い、「でも、よくわかる」と王子は言った。「研ぎすぎて、予選会よりまえにポッキリいっちゃいけないし、研ぎが鈍くて、予選会当日にまだ曇っているようでは話にならない。そういうことですよね?」「そのとおりだ」清瀬はうなうなずく。「この加減ばかりは、闇雲に練習していてもつかめない。自分の内面との戦いだからだ。心身の声をよく聞いて、慎重に研いでいってほしい」 そうか、と走は思った。長距離に要求される強さとは、ひとつにはこういうことを言うのかもしれない。(P216)
 走の心を占めているのは、藤岡の姿だった。思いを言葉にかえる力。自分のなかの迷いや怒りや恐れを、冷静に分析する目。藤岡は強い。走りのスピードも並みではないが、それを支える精神力がすごい。俺がただがむしゃらに走っているときに、きっと藤岡はめまぐるしく脳内で自分を分析し、もっと深く高い次元で走りを追求していたのだろう。走はうちひしがれると同時に奮い立つという、奇妙な興奮を味わった。俺に欠けていたのは、言葉だ。もやもやを、もやもやしたまま放っておくばかりだった。でも、これからはそれじゃあだめだ。藤岡のように、いや、藤岡よりも速くなる。そのためには、走る自分を知らなければ。それがきっと、清瀬の言う強さだ。(P255)
 でも、それじゃ駄目なんだ、と走は思った。怒りは、怯えと自信のなさの裏返しだ。「信じろ」と言う清瀬と葉菜子は、「恐れずに認めろ」と走に言いたいのだろう。自分自身を、相手を。ただ走るだけでは、強くはなれない。俺は俺を制御しなきゃならない。言葉をつくして心を伝えようとしてくれる、ハイジさんや勝田さんのように。走は改めて、そう決意した。(P291)
 なかでもだが、結果や記録とはまったくちがう次元で、神童が走りを体現していることもたしかだ。強さ。ふと走は思う。清瀬が言った強さとは、これなのかもしれない。個人で出走するレースだとしても、駅伝だとしても、走りにおける強さの本質は変わらない。苦しくてもまえに進む力。自分との戦いに挑みつづける勇気。目に見える記録ではなく、自分の限界をさらに超えていくための粘り。走は認めざるをえなかった。神童さんは強い、と。たとえば走が五区を走っていたら、寛政はもっと順位を上げることができただろう。だがそれがすなわち、神童よりも走のほうが勝っているということにはならないのだ。神童は強い。そして走が目指すべき走りのありかたを、身を以て示している。どうして俺は、俺たちは、走るんだろう。走は特設ビジョンを凝視しつづけた。こんなに苦しくてつらいのに、どうして走りやめることができないんだろう。もっと強く吹いてくる風を感じたいと、体じゅうの細胞が蠢く。(P374)には、この小説の作品タイトルの所以が明確に書き込まれている。

 そして、こうして抜き書きしてしまうと身も蓋もなく浮いてくるような言葉が、実に心に沁みてくる物語世界を見事に構築していて、そのことのほうが感動的ですらある。


 映画化作品には、このように小説の言葉で明確にした形での“強さ”の回答が明示されたりはしていないのだが、これらの言葉が、まさしく言葉ではない形で全て宿っていたような気がする。それは、アオタケの住人が襷をかけて懸命に走りながら思いを巡らせる言葉の数々についても、同じことが言えるように感じた。
 高校まで陸上競技に打ち込んだ経験がありながら、断念していたニコチャンの…そしてわかったのは、無意味なのも悪くない、ということだ。綺麗事を言うつもりはない。走るからには、やはり勝たなければならないのだ。だが、勝利の形はさまざまだ。なにも、参加者のなかで一番いいタイムを出すことばかりが勝ちではない。生きるうえでの勝利の形など、どこにも明確に用意されていないのと同じように。…(P422)であるとか、
…清瀬は優秀な指揮官だ。ひとの痛みを知り、同時に、競技の世界の冷徹さも知っている。価値観の違いをすべて飲みこみ、なおかつ強靭な精神力と情熱で、寄せ集めのチームを牽引してきた。ハイジに情熱を与えつづけたのは、やはり走だ、とニコチャンは思う。清瀬は走を放っておけなかった。傷ついてなおきらめく、走の得がたい才能を。すごいのは、二人のウマが合ったことだろう。ニコチャンは鼻筋を伝う雨の粒をぬぐった。走るという行為に限定せず、清瀬と走はあらゆる面において、お互いの存在に刺激を受けているようだ。ニコチャンにはそう見えた。相手の美点に心を揺さぶられたり、欠点に腹を立てたり。それはつまり、人間同士のつながりがちゃんとあるってことだ、とニコチャンは思う。友情とか愛情とか、そういうきれいで大切なものが、清瀬と走のあいだには確実にある。走りでも、心でも通じあえる。そんな二人が出会ったことを、ニコチャンは奇跡のようだと思うのだ。清瀬と走のつながりとぶつかりあいを、ニコチャンはいつまでも見ていたかった。走るという行為がもたらした、とても貴い形をした人間のありかたを。だからこの一年、ともに走ってきた。いまも全力で走っている。…(P423)
…ニコチャンは選ばれなかったし、祝福されなかった。もしいるのだとするなら、陸上の神とでもいうべきものに。走を身近で見ていれば、いやでもわかる。走のように、選ばれ祝福されたランナーになりたいものだと、ニコチャンは心から願ったが、それは果たされるべくもない望みだ。でも、まあいいじゃねえか、とニコチャンは思う。選ばれなくても、走りを愛することはできる。抑えがたく愛しいと感じる心のありようは、走るという行為がはらむ孤独と自由に似て、ニコチャンの内に燦然と輝く。それを手に入れられたのだから、いつまでもそれは残るのだから、もういいのだ。いま自分にできるすべてを最後の走りにこめて、ずいぶん長くつづいた競技への物思いは、今日で終わる。…(P434)
 そして、キングが勝てねえなあ。…俺はハイジには勝てない。(P442)との思いを新たにした際にめぐらせた言葉の数々、
 また、いまはちがう。胸にかかった寛政大の襷に、走はそっと触れた。この一年で走は変わり、そして知った。走りは、走を一人にするばかりではない。走りによって、だれかとつながることもできる。走るという行為は、一人でさびしく取り組むものだからこそ、本当の意味でだれかとつながり、結びつくだけの力を秘めている。…走りとは力だ。スピードではなく、一人のままでだれかとつながれる強さだ。ハイジさんが、それを俺に教えた。言葉をつくし、身をもって、竹青荘の住人たちに示した。…ハイジさんは、信じるという言葉ではたりないと言った。俺もそう思う。どんな言葉も嘘になりそうなほど、ただ自然に湧きあがる全幅の信頼が胸のうちにある。自分以外のだれかを恃む尊さを、俺ははじめて知った。走ることも、それに似ている。理由や動機は必要ない。ただ呼吸するのにも似た、俺が生きるために必要な行為だ。…(P462)という走の言葉も、映画では小説のように明示されてはいなかったが、映像という言語によって見事に伝えてきていたように思う。だから、原作を読んでも全く違和感がないどころか、より明瞭に補完される印象を抱くことができたような気がする。これらの部分を映画作品のなかで走りながらのモノローグなどにして艶消しにしていないところが素晴しい。


 それにしても、スポーツ系の物語を綴りながら、その最も大きな主題を“言葉”に置いた作品世界の構築は、見事という他ない。“強さ”について探求を重ねていく走に「俺に欠けていたのは、言葉だ」との台詞を配し、「言葉をつくして心を伝えようとしてくれ」「言葉をつくし、身をもって、竹青荘の住人たちに示した」ハイジの言葉抜きには、走が“自分以外のだれかを恃む尊さ”を知ることができなかったくらい言葉の重要さを説いていることに感銘を受けた。人と人とをつなぐのに、言葉を抜きにはできないと僕も思う。そして言うまでもなく、必要なのは、量以上に質なのだろう。ハイジに留まらず走る竹青荘の住人たちの言葉の美しさが感動的だった。だが、考えてみれば、現実世界でもトップアスリートたちの言葉は、どのスポーツに限らず、いずれも美しく感動的だ。そして、そのうえでなお言葉では言い表せない次元に、スポーツは人を連れていくことができるのだろう。
by ヤマ

'11.02.12. 新潮社単行本



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