『グラン・トリノ』(Gran Torino)
監督 クリント・イーストウッド


 タイトルのグラン・トリノという言葉が何かも知らずに観たので、自動車工一筋でフォード社を勤め上げた東欧系アメリカ人ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)秘蔵の'72年製のフォード車モデルだったことに意表を突かれたのだが、観終えてみると、四十年近くも前の旧式モデルとは思えないピカピカさで目立つこのグラン・トリノが、まさにウォルトそのものであったことが沁みてくるような映画だった。そして、彼にとっては妻に先立たれたことが如何に大きな意味を持っていたかが偲ばれてくるところに深みのある作品だったように思う。基本的にクラシカルなマッチョであるウォルトは、ダチとは悪態をつき合ってこその“男の付き合い”だと思っているような男であるうえに、朝鮮戦争での出兵時に心の深いところで傷を負いながらもマッチョに縛られて弱みなど見せることができずに生きて来た男で、おそらく唯一亡き妻のみが、彼が肩肘張って気張ることを要しない形に包み込んでいた存在だったような気が、僕はしたのだった。

 死が癒しでもあることを述べた若い神父ヤノビッチ(クリストファー・カーリー)の弔辞を“生死のこともろくに知りやしない27歳の童貞若造の語る頭でっかちな能書き”としてしか受け取れなかったウォルトが、亡き妻を葬送する喪の仕事のなかで、自分の身にも間近に迫ってきている死と向き合いつつ、自身の子供たちとの断絶と隣人の若き異邦人姉弟のスー(アーニー・ハー)とタオ(ビー・ヴァン)から得た癒しを見つめることによって、その若造神父の語っていた「死は終わりであると同時に始まりであり、終えることによって始まる癒しでもある」ことを正に体現した見事な人生の幕引きを果たしていくことができたのは、やはり妻を亡くしたことで直面した喪失感と孤独が尋常ならざるものだったからのように思う。ウォルトが、たぶん出征体験を契機として止めたのだと思われる教会での懺悔を最後にしに行った理由としては、それが妻の遺言だったからというだけでは足りないのだが、同時に、神なき戦場の惨禍を目の当たりにして信心を欠くに至ったであろう教会ではあっても、妻の生前に伽として律儀に付き合って通っていたことが大きく作用していて、仕立て直したスーツを着て教会に向かっていたときに秘めていた覚悟の程と亡き妻への想いの深さというものが、彼に遺言の履行をさせたような気がしてならなかった。

 彼の最後の選択があのような形になったことに対しては、妻の死と自身を冒す病魔、スーを見舞った厄災、タオに与え得た薫陶のいずれが欠けても、ウォルトにその決意は訪れなかったような気がする。逆に言えば、それらが揃っていることで、決して聖人君子ではない彼に訪れた奇跡というものに説得力が備わり、感銘を与えるのだと思う。また、ヤノビッチ神父から「それだけ?」と問い返された三つの懺悔の最後に漏らした、自身の子供たちとの間に溝を作ってしまったことへの悔恨は、彼のなかでは本当に重い意味を持ったものだったような気がした。タオとの間で交わすことのできた関わりを何故わが息子たちとの間で結べなかったのかとの思いは、自分にも出来ないことではなかったことが証明されて尚一層重く圧し掛かってきたように思われてならないからだ。

 おそらく彼の息子たちがタオのような年頃だった時期のウォルトは、クラシックカーとしてのグラン・トリノではなく、現役バリバリのマッチョに縛られていたうえに、朝鮮戦争で受けた心の傷に自分が持ち堪えることに奪われるエネルギーのほうが大きくて、老いてからタオに向かったような心境で臨める余裕がなかったのだろう。その当時のウォルトは、むしろ子供たちと同様に妻から支えられ、守られているようなものだったのではなかろうか。そして、彼の亡き妻は、おそらくスーのように気丈で聡明で、受容力に富んだ笑顔の素敵な女性で、ウォルトは、スーのなかに亡き妻の気質を見出したからこそ、姉弟との付き合いを深めていったのではなかろうか。そんな気がしてならない。かほどに彼にとって、亡き妻の存在は重きをなしていたように思う。だから、そんな妻の面影を偲ばせてくれるスーに、自分の粋がった報復的示威行動のツケで悲惨な目に遭わせてしまった悔恨は、彼に自分の身上とも言えるマッチョスタイルによる仕返しを思い止まらせるほどに深かったわけだ。

 ウォルトの献身がベトナム戦争での従軍体験に対する個人的な贖罪行為になったりしないよう、スーとタオがアメリカの介入したベトナム戦争によってベトナムにいられなくなったベトナムからの難民一家に生まれた子供たちで、ウォルトが出征していたのがベトナム戦争ではなく、朝鮮戦争で心の傷を負っているとの設定が実に的確だ。スーたちを痛めつけた従兄弟たちの荒みようと悪質さをも含めて、彼らがアメリカの犠牲者であることを強烈に印象づける。こうしたことで、ウォルトの最後の選択が、第二次世界大戦後の最大の戦争大国アメリカが鼓舞し続けてきた“強いアメリカ”というマッチョスタイルを放棄し、報復の連鎖を断ち切ることの意義と値打ちを訴える意味合いを自ずと帯びてくるようになっていたように思う。そして、ウォルトの勇気ある選択が、ブッシュ政権の終焉とオバマ政権の登場によって、アメリカという国家の選択としても現実的に可能になりつつあるように思える今において示されることの意味は、歴史的な意義すら持つように思える。それなのに、政治色はほとんど打ち出さず、むしろ人間の死生観としての色合いを強める形にして、若き神父に「死は終わりであると同時に始まりであり、終えることによって始まる癒しでもある」ことの意味を、ウォルトから教えてもらったというような弔辞を述べさせていたのだが、そうしたことで、より訴求力を高めている気がした。本当によく練られた深みのある脚本に、渋い演出で見事だった。大したものだ。

 不覚のうちにも涙して観た。シネコンもありながら、これだけの作品が高知では上映されないとは、全く犯罪ものだ。



参照テクスト:掲示板・SNS 談義の編集採録


推薦テクスト:「シネマの孤独」より
https://cinemanokodoku.com/2019/07/05/grantorino/
推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20090506
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1150257507&owner_id=3700229
推薦テクスト:「大倉さんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1152335556&owner_id=1471688
by ヤマ

'09. 6. 5. 梅田ピカデリー3



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