『長江哀歌』(Still Life[三峽好人])をめぐる往復書簡編集採録
チネチッタ高知」:お茶屋さん
ヤマ(管理人)


  ヤマ(管理人)
 お茶屋さん、こんばんは。
 僕と波長の合わないジャ・ジャンクー作品なんで、日誌も敢えて綴らずにいたけど、お茶屋さんの「かるかん」読んで、触発されたもんで、ひさびさのメール(笑)。
 「これがキネ旬ベストワン???うっそ~ん。」は、キネ旬よりもベネチアって思うけど(笑)、この作品は、「映画とは何か」という問題意識は、非常に強い作品で、そこんとこでは、いかにもマニア受けする興味深い作品ではあるのよ。まぁ、その話は、後に置いといて、先ずは「疑問符いっぱい」との疑問符への僕の回答から。

1.「建物の解体作業は何のためなのでしょう?」
 映画では明示されてなかったと思うよ。僕は、最初はムダな仕事を作っている御役所を揶揄したのかと思ってたけど、例の白装束の消毒散布みたいな連中が現れてからは、もしかして建材のなかの有害物質の中和剤散布に必要な解体なのかい? なんて思いもよぎった(あは)。飲料用水も考えてのダムかもしれんと。けど、それなら、飲料水として取水したときに処理すればいいことやね(苦笑)。
 結論:僕もわかりません。でも、これも後で述べることに絡んでくるから、お楽しみに。

2.「新しい都市計画があるのでしょうか?」
 そんな話も出てきてはなかったように思うなー。

3.「失業対策にわざと人力の解体作業を多くしているのでしょうか?」
 これは僕もちらっと思った。

4.「酒、タバコ、お茶とわざわざ文字で強調する意図」
 これはね、お茶の後で飴の章をそれまでと違う繋ぎで出すための布石だったと観てる、僕。最初のタバコは、少年がタバコを吸う映像と共に右下隅に文字が出るよね。後の酒も茶もそう。なのに、飴は違う。三度続けて見せといて、観る側が、あー、そう来るのかと気づいて慣れた頃合いにハズシを掛けて「わかるひとにはわかる」的なマニアックな交感を仕掛けていたんじゃないかなー。

(お茶屋さん)
 あ、これは残念。飴の文字とそのエピソードは、どうやら爆睡中だったようです。飴はどう違っていたのですか?

ヤマ(管理人)
 飴の文字が出るときに、飴が映らないってだけのことだけど(たは)。

(お茶屋さん)
 な~んだ(笑)。

ヤマ(管理人)
5.「ところどころ差し挟まれる非現実的なカットも奇をてらったように感じました」
 同感。っていうか、ここが実は最もあざとい仕掛けだったのだろうと思う。ここだけではなくて、実は全部が非現実的なカットなんだということに気づかせるヒント出しだったのかもしれないということなんだけど。

6.「他に友達に電話するシーンがありましたっけ?」
 着メロを紹介し合い番号を交換するために目の前で掛け合ったとき以外には、出てこなかったと思うよ。


-------フェイクムービーとしての『長江哀歌』-------

ヤマ(管理人)
 で、僕がお茶屋さんから触発を受けたというのは、この数々の疑問符に対して僕なりに回答を考えているうちに気づいたことだからなんだけど、『長江哀歌』というのは、実は壮大なフェイクムービーではないかということなんだよね。
 「疑問符5.」で提起されている、シェン・ホンの背景で風変わりな建物がロケット噴射するイメージとか、ハン・サンミンの背景で宙を歩く男(綱渡りのイメージなのか空中散歩のイメージなのか判然としてないけど)のイメージとか、に代表される非現実だけでなく、貧しくて生活的にも所持している必要性のなさそうなハン・サンミンがケータイを持っていることにしても、冒頭で登場する、いかにも金を持ってなさそうな人たちが利用する渡船で、マジックショーを見せておいて見物料を巻き上げるという手の込んだ稼業にしても、例の解体作業にしても、ちょうどトランプが紙幣に変わるのがフェイクで、実際は、金に変わるトランプなどないように、全部うそっぱちなんじゃないかと(笑)。

(お茶屋さん)
 工事中の事故で亡くなった友人を船に乗せて(ダム湖に葬るの?)行くなんてのも嘘かもね。ロックのライブも嘘かもね。

ヤマ(管理人)
 不自然っちゃ不自然だったよね、どれも。

(お茶屋さん)
 まあ、まるっきりの嘘でもなくて、現代中国のどこかで目にすることができることの “コラージュ”かもしませんね。綱渡りの男性なんか雑技団、ロケット噴射は有人宇宙飛行船「神舟」、田舎じゃ使われていなさそうな携帯電話も都会では当たり前だろうし。面白い形の建物もどこかにあるのかもしれないし、UFOのような光る飛行物体も日本の70年代のテレビが放送していたみたいに中国のテレビで放送していたのかもしれないし。

ヤマ(管理人)
 なるほど、コラージュか。そいつは、面白い観方だな~。

(お茶屋さん)
 でしょー(笑)。

ヤマ(管理人)
 拍手、拍手!(にこ) なるほどね。フェイクなんてのより、遙かに好意的だね(笑)。同じあざとさを観るにしてもね。
 でも、手品だったしなー、オープニング(と、こだわる)。

(お茶屋さん)
 うん、手品だったしなー(ヤマちゃん有利)と私も思った(笑)。

ヤマ(管理人)
 つまり、そのフェイクを、例えばシネマサンライズの上映会でのアンケートの感想にもあったという、いかにも「中国の今を生きている人々と、自分たちも同じ空気を呼吸していると実感できる作品だった」というふうに、トランプが紙幣に変わった実感を“映画という幻影”によって現出してやろうじゃないかと企てていた作品だということだよ。
 でもって、作り手は、それこそが映画であるとしながら、同時に、そこにいう映画とは、いわゆるスタイルによって担保される代物ではないことを明示するために、いかにも映画らしい映画のスタイルを尽く外すスタイルによって、“スタイルというものが映画を形作るものではない”ことを提示しようとしていたんじゃないかな~。
 そういうことで、「映画とは何か」という問題意識は、非常に強いわけだけれども、これって、もんのすごい、あざとさだと思わない(笑)? 冒頭で、トランプのマジックショーを登場させてるのは、そういうことなんだよ、きっと。で、「疑問符4.」のことも、「疑問符5.」とともに、そういったことへの気づきを促す仕掛けだったと思うわけ。
 どう思う?(たは)

(お茶屋さん)
 う~ん、初めは「そうかな~(違うでしょ~)」と思っておりましたが、だんだん「フェイクかも」と思えてきましたよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 ほほ、そいつは嬉しいね。

(お茶屋さん)
 ベネチアで賞を取っていたというのも驚きでしたけど。

ヤマ(管理人)
 受賞理由が気になるよね。フェイクゆえか、フェイクに気づかずにか(笑)。

(お茶屋さん)
 何はともあれ、たくさんの疑問符にお答えいただきありがとうございました。ほとんどは、映画の中でも答えがなかったと言うことで、それじゃ、眠っててもよかったなと一安心(笑)。

ヤマ(管理人)
 どういたしまして。こちらこそ、おかげで興味深い気づきを得ましたよ(礼)。

(お茶屋さん)
 で、「どう思う?」とのお問い掛けについては、う~ん、ヤマちゃんの指摘で、私もフェイクムービーと思えるようになったわけですが、なぜ、フェイクムービーを作ったかという点ではちょっと異なるのかなぁ。

ヤマ(管理人)
 というと?

(お茶屋さん)
 さっき言ったように、まるっきりの嘘でもなくて、現代中国のどこかで目にすることができることのコラージュかもって気がしてますもの。事物事象をコラージュすることによって、三峡ダムの現実とは異なる映画にはなったものの、“高度経済成長期の現代中国全体を浮かび上がらせた映画”にはなっていますよね~。だから、観客が「中国の今を生きている人々と、自分たちも同じ空気を呼吸していると実感できる作品だった」と感じるのだろうし、世の中が変わっても人間のすることにあまり意外性はないよと、そういう映画にも見えます。ここまではヤマちゃんと(たぶん)いっしょ。

ヤマ(管理人)
 いやいや、いっしょなもんか、僕は、あざとさが気になって“実感”なんぞ誘発されなかったもの(とほほ)。

(お茶屋さん)
 あれ、そうだったんですか。でもまあ、皆さんがそう受け止めることは理解できるのでしょ?

ヤマ(管理人)
 もちろん。だから、ちょっとタチが悪いって思ったりしてるの(苦笑)。
 でも、コラージュの狙いがそこにあるというのは卓見だね~(感心の三乗)。なるほどなー。いや、その観方、とってもいいね。


-------ギャスパー・ノエと同じ確信犯なのか否か-------

(お茶屋さん)
 ただ、そちらのほうに主題があるとすれば、「いかにも映画らしい映画のスタイルを尽く外すスタイルによって、“スタイルというものが映画を形作るものではない”ことを提示しようとしていたんじゃないか」というような、まどろっこしい映画だとは感じないのですよ。ジャ・ジャンクー監督を私が知らないせいもあるかと思うんだけど、彼はそんなギャスパー・ノエみたいな仕掛けをするようなこすっからい(笑)人なんですか?

ヤマ(管理人)
 おー、ギャスパー・ノエ!(笑)

(お茶屋さん)
 わーい、受けた(^o^)。

ヤマ(管理人)
 いや、単なるウケじゃなくて、核心を突いた鋭い提起だと思うよ。確信犯としてのフェイクってとこでね。僕は、両者に相通じるものを感じるな~。むしろ挑発的でない分、ジャ・ジャンクーのほうがタチが悪い(笑)。

(お茶屋さん)
 私は、『長江哀歌』に描かれた様々な中国人を見ていると、ジャンクー監督は、観察力に富んだ冷徹な目を持ちながら、優しさもあるような気がするのですが。

ヤマ(管理人)
 いや、だから、そこんとこがノエよりもタチが悪いってことさね(笑)。

(お茶屋さん)
 気になって、どんな顔の人かネットで見てきましたよ(笑)。このお顔は、素朴な人ではありませんねぇ。

ヤマ(管理人)
 僕は、顔を知らないけど、素朴で淡々としたタイプじゃ決してないはずだ(断言)。そのくせ、そう受け取られることを狙った映画づくりをしつつ、観る人が観れば、きちんとそうではないことも判るように作ってて、どっちにも目配せしてほくそ笑んでいるような小癪さが、あざといんだよな~。

(お茶屋さん)
 写真を何枚か見ましたが、ちょっと何を考えているのかわからない表情ではありましたね。体温低そうでしたよ(笑)。映画の温度も低いしね。

ヤマ(管理人)
 確かに(笑)。

(お茶屋さん)
 まあ、映画監督で素朴な人って少数派かもしれませんが。

ヤマ(管理人)
 そういや、そうだ(笑)。あー、でもなー、長島一茂も遂に映画監督、やったしな~。まぁ、彼にしても、あの父親を持ったうえで長島の息子っていうだけでない部分をセルフ・アイデンティティとして獲得していくうえでは、本当に素朴なだけでは太刀打ちできるはずもなかっただろうけど。

(お茶屋さん)
 それなりに屈託はあったでしょうね。苦労が顔に出てないのは、損なのか得なのか・・・・。私は得と思いますが。

ヤマ(管理人)
 僕は得どころか、徳だと思ってるよ。

(お茶屋さん)
 ねー。んじゃ、一茂は徳がある人だ。しかし、なぜ、一茂が映画監督を!?  ポストマンでしたっけ。

ヤマ(管理人)
 うん。

(お茶屋さん)
 今、allcinemaで見てきたら、制作総指揮だそうです。監督は今井和久となっていました。

ヤマ(管理人)
 あらま、そーだったのか。なんかTVで本人が映画作ったとか言ってたから、てっきり監督かと思ってた(たは)。

(お茶屋さん)
 それはともかく、ジャンクー監督は、お顔からすると、私とは話が合いそうにないなぁ。
 ということは、たぶん、この監督の作品は、合わないでしょうね、私には。好きな作品を撮っている監督の顔を見ると、不思議と話が合いそうな気がするんですよね~。

ヤマ(管理人)
 ふーん、そんなもんか(笑)。ま、拙著にも書いたように、作品鑑賞って対話だもんね。

(お茶屋さん)
 ワタクシ好みの映画を撮っている松岡錠司監督の顔を見たとき、そう思ったもん。面白くてもイマイチ好きになれない映画を撮っている岩井俊二監督は、顔を見たとき「ああ、やっぱりね」と(笑)。

ヤマ(管理人)
 そう言えば、僕はほとんど監督の顔って知らないな~。大林宣彦監督と山田洋次監督くらいか? あ、そー言えば、岩井監督の顔って、思い出したぞ。あと、黒澤明、新藤兼人、市川崑は、知ってるな。そんだけ??(呆) あ、スピルバーグも知ってる!(笑)

(お茶屋さん)
 それはそうと、う~ん、なんかねぇ、「奇をてらった」ように感じていた映像も、コラージュであって、中国のどこかで見ることのできる事柄であると考えるようになると、あながち「奇をてらった」とは思えなくなってきましたよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 うん。このコラージュ説というのは、素敵な観方やね。もっとも僕は、そう観ても、あざといとは思うけど(あは)。だって、それならそれで、真っ当にコラージュ性を示さなきゃ。だから、やっぱ、手品だってば(笑)。

(お茶屋さん)
 う~ん、確かに手品は、なかなかの証拠物件だと思うけど、「煙草」「茶」「飴」などの文字や、UFO、ロケット、ユニークな建物などは、いかにもとってつけたような感じで、切り貼り感と申しましょうか、コラージュ性の証と言えるんじゃないですかねぇ(笑)。

ヤマ(管理人)
 確かに確かに。とってつけた感じってのが誰にも共通する先ず最初の入り口だよね、この作品の。そこに何らかの意味を見出して、それゆえに“あざとさ”として受け止めるか、切り貼り感としての収まりからコラージュ性という“造形”を認めるのか、その違いは、大きいよねー。

(お茶屋さん)
 私も初めは「奇をてらった」と思っていたわけだし。

ヤマ(管理人)
 確かに。

(お茶屋さん)
 ああいう、とってつけたような映像を挟む目的がわからなかったから「あざとい」とまでは思わなかっただけなんですよね。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。で、僕としては、お茶屋さんに提起してもらった“コラージュ性”には是非もなく同意するし、感心するけど、共感は生まれないなー。ちょうど、お茶屋さんが『カノン』でノエの作り手の表現としての狙いを解題されてみたときに、感心はしても、お気には召さなかったのと言わば、同じようなものだよ。
 そういう意味でも、ギャスパー・ノエの引用は、秀逸さね(拍手喝采)。

(お茶屋さん)
 わはは、そうですか、ありがとうございます。だけど、ヤマちゃんの「フェイクムービーじゃない?」という問いかけには、真っ先にギャスパー・ノエが浮かびますって(笑)。

ヤマ(管理人)
 トラウマになってんのね(笑)。まー、近親姦を一瞬許容させられたわけだし、ね(笑)。

(お茶屋さん)
 状況がいっしょでしょ? 「突然、何を言い出すのか、この人は」って(笑)。

ヤマ(管理人)
 え? 『長江哀歌』に
カノンの「ATTENTION!=デンジャー・サイン」に相当する台詞が何かあったっけ?

(お茶屋さん)
 いえいえ、「突然、何を言い出すのか、この人は」というのは、ヤマちゃんを指しているのですよ;;;。

ヤマ(管理人)
 なんだ、そういうことか(笑)。だから、僕にしても、そういう感心が共感や作品との対話に繋がる場合は勿論あって、『カノン』の他にも例えば、カナリア』の拙日誌に綴ったように、あのレズビアンのシーンのとってつけたような登場っていうのが、僕には効果的に、また好意的に作用しているわけだしね。『長江哀歌』は、そうはならなかったけど(苦笑)。

(お茶屋さん)
 ヤマちゃんが手品からフェイクを思いついたように、私はうえに書いたものからコラージュみたいと思ったわけだから…。

ヤマ(管理人)
 そうそう。どっちが正しいとかって話じゃないよね。作品のなかに宿っている何に目を留め観るのかってとこが、まさに鑑賞の醍醐味なんだから、当否が争われることは場合によってあっても、正誤ってものじゃないような気がするもんね。


-------『長江哀歌』に窺える「映画とは何か」という問題意識の強さ-------

ヤマ(管理人)
 で、先に書いた「映画とは何か」という問題意識の強さを僕が感じるのは、単にそのコラージュ性から受け止めているからではないんだよね。ほら、拙著に「映画は時間芸術」というようなこと書いてたでしょ。映画という時間のなかに、場面としてのどういう時間を取り込むのかってことは表現としての映画の根幹にある部分だよね。そこんとこで言えば、ふつう映画では、朝起きて歯を磨いて顔を洗ってといった時間は映画のなかに取り込まずに、物語性の強い時間を中心に構成するもので、その繋ぎにおいて緩急のリズムやテンポを醸成するうえで必要なものとして、日常性に沿った時間を取り込むのが基本スタイルなんだけど、拙著にてアキ・カウリスマキ作品に絡めて言及したような“外し”をジャ・ジャンクーもいっぱいやってるでしょ。

(お茶屋さん)
 う~ん、そんなこと意識して観てないからなぁ。よくわかりません。

ヤマ(管理人)
 野暮な話やったね、ごめんごめん(詫)。
 具体的にとなれば、またまた特徴的な冒頭の場面のことが頭に浮かぶんだけど、渡船のなかで手品ショーをやって見料を取り立てようとした連中に金目のものが何も入っていないバッグの中を物色されたときにハン・サンミンが静かにズボンのポケットに手を入れ、小銭でも出すかと思いきや、むき身のナイフを取り出したでしょ。そもそもむき身のナイフがポッケに入っているものなのかってのはさておいて、僕が問題にしたいのは、そこでいきなりカットが変わって船から船着き場に渡した板の中程をさっきのバッグを提げて普通に下船しているハン・サンミンの姿を映し出した時間構成のことなんだよね。ナイフを出しながら、ナイフを出した後の時間をいきなりカットしちゃってた。ハン・サンミンの娘探しにしても、シェン・ホンの夫探しにしても、カウリスマキばりに、普通なら映画に取り込むはずの過去や現在の時間、あるいは会話を取り込まずに、普通なら余り長々と取り込みはしない時間や物語的にはあまり意味のない会話あるいはイメージショットのほうを重用する時間構成をして、映画作品にしてたでしょ。

(お茶屋さん)
 ああ、こういう風に具体的なシーンを挙げてもらうと、少しはわかります。そのシーンは、始まりのほうで、まだ起きていたし(笑)。

ヤマ(管理人)
 じゃあ、「またまた冒頭」ってのが却ってよかったのね(笑)。

(お茶屋さん)
 ナイフを出した後の時間をカットしているのは、なかなかの省略ぶりだとは思ったけど、独創的というほどではないですよね。

ヤマ(管理人)
 うん。 「ハズシ」なのは間違いないし、ハズシである以上、それが主流では決してないけど、ハズシ方としては、別に独創的ではないよね。

(お茶屋さん)
 ただまあ、「ナイフを出してどうなる!?」というところを省略して、その他の物語性の薄いシーンを延々とやられるのには、眠りを誘われるわけだけど、ジャンクー監督には観客を眠らせない自信があったのかな? 自信過剰だなー(笑)。仕事で疲れているのを無理して観に行っているということを知らないのかなぁ。

ヤマ(管理人)
 「自信」っていうよりも「挑戦」っていう思いじゃないのかな。そこんとこが問題意識の高さとして、僕には映ってきてて、それには好感が持てる。でも、その表現の仕方があざとすぎて、好感が持てないってことだね。

(お茶屋さん)
 私は素直に眠りを誘われたので、“「映画とは何か」という問題意識の強さ”を感じることがなかったのかもしれないですね。

ヤマ(管理人)
 あ、それはそうかもしれない。お茶屋さんが眠った時間のところを見せることで、問題意識の強さを感じさせてるんだから、観てなければ、伝わんないよね、当然のこととして(笑)。
 また、フォトジェニックという点でも、標準的な映画のスタイルを外してるし、凝った画面造形をしているくせに、ドキュメンタルに撮っているように見せたりしているわけで、そういう点では、すごくスタイリッシュなんだよね。

(お茶屋さん)
 ここはわかります。

ヤマ(管理人)
 よかった、よかった(嬉)。

(お茶屋さん)
 絵画的ではないのに、画面構成がしっかりしていると思っていました。舟をこぎ出すシーンや、トラックの荷台に人を乗せて出発するシーンなど、画面の奥に向かっていくシーンが印象的でした。

ヤマ(管理人)
 なんだ、眠ってないじゃない(笑)。

(お茶屋さん)
 ドキュメンタリー風に見せようとしているけれど、そうじゃないと思いますし、映像面では独創性が高いと思います。

ヤマ(管理人)
 はいな。ハズシってとこでは、カウリスマキの亜流でしかないけど、フェイクってとこでは、そのコラージュ的造形や映像性において、ギャスパー・ノエの亜流にはなってないよね。ノエの映像も、ある種、ドキュメンタリー風に見せようとしていたわけだけど、決して、絵画的ではなく、画面構成が不安定で、静かさとは正反対の不快な呪詛に満ち溢れていたよね(笑)。

(お茶屋さん)
 そうですね。この前もムービージャンキーの主宰者の方が『長江哀歌』の間の取り方が北野武の作品に似ていると言ってたし。北野作品の間はもっと強烈だけどね。

ヤマ(管理人)
 僕はそれについては、あまりピンと来てなかったんだけどね。

(お茶屋さん)
 ノエの『カノン』は、映像よりも音に重きが置かれていたような気がするし。音と言えば『長江哀歌』の音はうるさくてたまらんかったー。ジャンクー、音にも気を配っていますね。

ヤマ(管理人)
 これも、それほどには僕は気づいてなかったナー(たは)。

(お茶屋さん)
 映画を意識しているという点では、ノエよりジャンクーのほうが意識しているなぁ(笑)。

ヤマ(管理人)
 それは、僕もそう思う。より正確には、“文体としての映画”ってことについて、だけどね。イメージが観客に与えるものってとこでの映画というものについての意識は、ノエも相当なものではあったと思うよ。

(お茶屋さん)
 間の取り方、画面構成、音など結構隅々まで意識しているのに、ジャンクー自身は映画好きってほどじゃない気がします。映画小僧の嬉々とした瑞々しさは皆無!

ヤマ(管理人)
 全く同感(笑)! だから、あざといって感じになるんだもん。カウリスマキは、映画小僧でしょ(笑)。だから、あざといって思わない。

(お茶屋さん)
 そこまで考えると、ヤマちゃんの言うところの「映画という幻影」で「現代中国を実感できる」ように「挑戦」して、みごとに成功したジャンクー、あんまり可愛くないですね(笑)。

ヤマ(管理人)
 全然、可愛くない(笑)。コテコテの作り物をいかにも作り物ではないように見せるフェイクを仕込みつつ、ちょうどノエの“ATTENTION!=デンジャー・サイン”ばりに、きっちり“??”なカットを入れ込んで、マニアックな注視者をほくそ笑ませるような「こすっからい(笑)」映画を撮ってたように思うんだけどナー(あは)。あのあざとさは、やはりただ者ではないって(笑)。

(お茶屋さん)
 お顔を見て気が合いそうでないと思ったから、もう「こすっからくて」「あざとい」でいいや(笑)。

ヤマ(管理人)
 こう身も蓋もなく言われちゃ、ちょっと庇ってあげたいけど、徹底して擁護するほどに惚れちゃいませんってことね(笑)。

(お茶屋さん)
 わー、ジャンクー監督、かわいそうー(笑)。

ヤマ(管理人)
 あれ? これって、お茶屋さんの心境を代弁して書いたつもりだったんだけど(たは)。

(お茶屋さん)
 あれ?そうだったの。そういうことなら、そのとおり。擁護する心境にはありませんね。映画小僧なら迷わず擁護するけどね(笑)。



推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/00c4b77fe5a5dd621c86183f8b46c0e2
2008年3月11日 1:15 ~ 2008年3月23日 10:09

編集再録by ヤマ



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