『約束の旅路』をめぐって
(TAOさん)
ヤマ(管理人)


  ◎掲示板(No.7625 2007/11/01 18:07)から

(TAOさん)
 ヤマさん、お忙しいのに『約束の旅路』の日誌をお願いして申し訳なかったなあと恐縮していたところでしたが、やっぱりおねだりしてよかった! とても読み応えのある感想で、感銘を受けました。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、TAOさん。ありがとうございます。僕もリクエストいただいてよかったです。日誌を綴る前にする反芻過程での発見がいくつもありました。

(TAOさん)
 “愛とは意志である”ことを強く訴えている作り手の思いの延長線上には“隣人愛”があるのかもしれないとも思った。
 とくにここですよねー。穿ってなんかいないでしょう。

ヤマ(管理人)
 賛同ありがとうございます。
 これも、観終えたときには当然ながら想起だにしていなかったことでした。それ以前に「“愛とは意志である”ことを強く訴えている」というまでの明確な意識もなく、ただ母性の気高さと靭さというものに打たれていただけでした(あは)。

(TAOさん)
 はあ、そりゃもう右に同じです(笑)。場内すすり泣きの嵐でしたしねえ。
 “靭さ”とお書きなの、さすがですね!

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(TAOさん)
 大木や鉄骨のように風雨に抗う“強さ”ではなく、柳のように打ちしおれながらへこたれずに粘る“靭さ”でした。

ヤマ(管理人)
 そうですよね〜(にこ)。
 反芻過程での発見というのを少し説明すると、18歳になったシュロモが医師になるべくパリに旅立つ際に打ち明けた話は驚きとともに強く印象に残っていて、“愛とは意志”のメッセージは受け止めていたのですが、その台詞の意味を考えているうちに、そーか、だから、サラの愛なんだと気づき、この映画がヤエルの“愛とは意志”を描くに留まらず、作品として“愛とは意志である”ことを強く訴えるために撮られたことに思いが至り、そこで矢庭に、差し挟まれていたニュース報道が単にイスラエル現代史を指すのではないように思えてきたのでした。だって湾岸戦争はイスラエルじゃありませんものね。
 そう思ったときに、キブツでの祖父の言葉が蘇ってきました。そして、今回併せてアップしたキングダム』の拙日誌に綴った見えざる敵が、憎悪と復讐の連鎖へと追いやる状況を断ち、シュロモの祖父の言う土地は分かち合うべきだ、太陽や日陰のように。互いに愛が学べるように。を現実にもたらすものがあるとすれば、すなわち、それがヤエルやサラの体現していた“意志としての愛”で、それはこよなく気高く美しいながらも、絶対に不可能だとは言えないものであることを力強く描いていたように思ったわけです。

(TAOさん)
 ヤマさんの反芻の過程、とても興味深いですね。

ヤマ(管理人)
 恐れ入ります(たは)。

(TAOさん)
 私の場合は、母性の気高さ、靭さを描く一方で、ユダヤ教やイスラエルという人工的な国家がかなり批判的に描かれていることから、作り手の明確な意図を感じました。

ヤマ(管理人)
 ほぅ、なるほど。でもこれは、僕はそうでもなかったんですよね。
 確かに拙日誌にも“創氏改名”を引き合いにする形で入国に際しての役人の態度に言及したりしていますし、寄宿学校での教師たちの抑圧性とか、ユダヤ教ということでは、正統派ユダヤ教ラビ庁の強制割礼やサラの父親とか批判的に描かれてはいますが、それは“権力や権威”に対してであって、ことはイスラエルに限らぬもののように感じていました。
 イスラエルを舞台にして国家権力や宗教権威を批判すれば、その具体としての対象は、イスラエル国家になり、ユダヤ教になるというだけのことのように僕は思っています。むしろ、作り手は、強権的だとの批判に晒されやすいイスラエルについて、例えば、キブツという集団農場が果たしている教育的効果を描いたり、1984年当時の寄宿学校にきちんとスクールカウンセラーが配置されていたことを描いていますし、思い返せば、例の差別役人の登場のあとには親切な看護婦、強権的な教師のあとには庇う教師を抜かりなく登場させますし、シュロモに討論会の議題を教えるラビの場面もわざわざ入れてあります。さらには、シュロモの大事な時期に叱咤激励してくれた警官とか、単純に国家や体制そのものを悪役に押し立てるのではなく、あくまでその権力行使や権威慢心が犯しがちな過ちに対する批判となるよう、むしろ細心の注意を払っているようにさえ感じました。
 もちろんそれは、きちんと批判すべきことを批判するうえで必要なことだと作り手が考えていたからだろうと思います。そのあたりのところが特に拙日誌にイスラエルという国についても、改めていろいろと思わせてくれる触発力に富んだ作品と綴った所以です。

(TAOさん)
 あ、そういわれるとそうですねー。同感です。安易に国家や体制そのものを批判してはいませんでした。

ヤマ(管理人)
 でしたよね。ご賛同ありがとうございます。

(TAOさん)
 もうひとつ、私は、主人公が国境なき医師団?に入るところに“約束の土地”はここではないどこかで与えられるものではなく、どんな場所でもみずから積極的につくりだすものなんだというメッセージを感じました。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。カナンのように決められた場所ではなく、シュロモが見出したような“場”であるべきで、彼が幸いにしてそうであったように、その“場”に辿り着く道が差別や憎しみによって妨げられたりしないことが、まさしく“約束”されてなければならないわけですよね。その約束に守られて辿り着く“場”は、全てカナンであるというわけですね。

(TAOさん)
 そして、実の母との邂逅をクライマックスにしなかったこと、2人の義母が本能的に主人公を受け入れたのではなく、意志と覚悟でじつの母以上に母になりきったことを印象づけたあの脚本は、本能としての母性なんかではなく、国も人種も超えて、まさに隣人愛につながるような愛の力を訴えたかったからだと思いました。

ヤマ(管理人)
 そうです、そうです。この“意志と覚悟”ですよ。祖父の言葉を現実のものとする可能性を生み出すのは。
 したり顔で“現実論”に終始していては、悪循環は止まらず、“世界は富者の王国”のままですよね。通常は、所詮超えられないと思いがちな隔たりをヤエルもサラも“意志と覚悟”で超えていくわけです。そして、シュロモは、妻サラの赦しを得たときに提示された“約束”として生母との再会を成し遂げたわけですから、この奇跡もその旅路を促した(であろう)サラあってのものだということになります。
 その意味では、『約束の旅路』という邦題は、含蓄のあるタイトルです。イスラエル政府がユダヤと認めたファラシャの帰還を約した出エチオピアの旅路であり、生母から泣かないで! 行きなさい、生きるの、そして何かになるの!と送り出された子供が、その約束を果たして志ある人物になるという、シュロモの人生の旅路でもあり、そして、妻サラとの約束を果たして生母を見つけ出す旅路でもあったわけですから。

(TAOさん)
 いやほんとですねー、含蓄ありますねー、タイトル。“約束の土地”を思わせ、宗教の枠を超えた聖性を感じますし、母との約束、そして、おっしゃるとおりサラとの約束でもある。

ヤマ(管理人)
 “約束の土地”ってのは、僕も思いました。というか、観る前はそれがタイトルだと勘違いしてた時もあったくらいです。アンジェイ・ワイダ監督の『約束の土地』を観たのは、24歳のときで、もう四半世紀前になりますが(たは)。
 また、拙日誌にヤエルほどの養母であっても“ママ”とは呼べないシュロモが、誇らしげに「祖父だ」と語り、「おじいちゃん」と呼べるのは、それだけ母という存在は特別なものだということなのだろうと綴りましたが、この特別さは、そのままシュロモ少年が祖父に提起した“土地”に繋がります。“母”のイメージというのは、国家も人種も宗教も越えて普遍的に“大地”になぞらえられるものですよね。
 TAOさんは、mixi日記で監督・原案・脚本のラデュ・ミヘイレアニュについて彼自身、父性原理主導の宗教や社会の矛盾を体験した人なのだろう。この作品を通じて、命を慈しみすべてを分け隔てなく受け入れる母性に理想の社会の鍵を見いだしているように思える。とお書きですが、うえにもお書きのように、ここに言う母性は、本能としての母性なんかではありませんよね。

(TAOさん)
 そうですそうです。本能で備わっているくらいなら、誰も育児ノイローゼなんかになりませんって。

ヤマ(管理人)
 そうですよねー。
 そもそもが人間ってのは本能の壊れている生き物でしょ。だいたいが都合の悪いことは、みんな本能説に帰結させたがるんです。でもって、そもそも母性愛を本能に起因するものだとしたがるのは、ともに愛についての“意志と覚悟”を備えたときにおいて、男はとうてい女性の愛にかなわないことへの言い訳として“性差に基づく本能的なもの”に起因させることで“意志と覚悟”の及ばなさによるものではないと思い込みたい、言わば、気休めのようなものだと感じています。

(TAOさん)
 なんと鋭い指摘!

ヤマ(管理人)
 いやいや、普通に自省すれば、男なら誰でも判るはずのことですって。女性には到底かなわないというのは、僕、日々実感してましたし(笑)。せめて不細工な気休めで誤魔化すことなく、素直にシャッポを脱ごうと(あは)。
 “母性愛=本能”説というのもまた「父性原理主導の宗教や社会の矛盾」に近いところがあるように感じています。

(TAOさん)
 逆に女は“意志と覚悟”すなわち侠気を男に求めたがりますが、それこそ幻想だと早く悟るべきかもしれません(苦笑)。

ヤマ(管理人)
 そのほうがストレスは少なくて済むでしょうね。

(TAOさん)
 つまらぬ幻想を抱いて幻滅するより、意志と覚悟をみずから備えるべく精進すべきなのかも・・・。

ヤマ(管理人)
 絶望もまた過剰な期待と同様に幻想的ではあるように思うのですが、オールオアナシング的にどちらかを取るとするのであれば、諦観をもって臨むほうがダメージ少なかろうと思いますね。期待も諦めもともに前もって思い込まない態度というのが最もいいと思うのですが、それってむずかしですよね。

(TAOさん)
 恋愛においてそれははなはだ難しいとしても(笑)、少なくとも教育者はそうあってほしいですよね。

ヤマ(管理人)
 特に女性のほうが、より苦手な傾向にあるように感じますしね。

(TAOさん)
 そうかもしれません! だから、こどもは母親の過剰な期待にふりまわされたり、あきらめに傷ついたりするんですね。

ヤマ(管理人)
 “意志と覚悟”の強さというものを“思い込み”を排して維持するのは、並大抵のことではありませんからね〜。
 僕は、この映画の愛における“意志と覚悟”について、ヤエルとサラを併置して述べてきましたが、ヤエルはともかく、サラにおいては、その“意志と覚悟”を保つうえで“思い込み”の力をかなり借りていたように思います。そのように描かれていたと思うんです(笑)。
 やはりTAOさんがおっしゃるように、とりわけ恋愛においてそれははなはだ難しいということですよね(笑)。  それにしても、教育者に職として求められる資質って、ある意味、期待も諦めもともに前もって思い込まない態度というものに尽きるのかも。あとのテクニカルなものって、二の次三の次ですよね。
by ヤマ(編集採録)



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