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『手紙』を読んで | |||||
東野圭吾 著 <毎日新聞社> | |||||
映画化作品を'06年度のマイベストテンに選出した頃から気になっていた原作を今頃になってようやく読んだ。映画日誌に「ひとつ大きな疑問があって、剛志のような事情を負ったなかで強盗殺人を起こした場合の量刑が無期懲役というのが本当に現状なのだろうか。怨恨要素のない金銭目的だから重くなりがちだとは思うけれど、無期懲役までいくのかしらと素人考えながらも疑わしく思った。」と綴っていた部分については、原作では刑期15年で、無期懲役というのは、あくまで求刑だった(P63)。 映画化作品でのお笑いが原作ではバンドになっているのは知っていたが、「…直貴は衝撃を受けていた。生身の人間たちによる演奏に合わせて歌っていると、カラオケでは味わえなかった陶酔感を感じることができるのだ。自分が徐々に酔っていくのを彼は自覚した。いつもとは明らかに違う声が、身体の違う場所から出ているようだった。曲の途中から寺尾も歌に加わってきた。二人の声が見事に調和しているのを直貴は感じた。歌い終わっても、しばらくは昂奮で頭がぼうっとしていた。」(P110)ことと名曲『イマジン』を象徴的に作品に取り込むことにおける必然感があって大いに納得。もう誰とも調和や一体感を得られなくなったと思っていたはずの直貴なればこそ、その体験が強烈なわけで、そのようなものをもたらし得るものとして、確かに音楽によるセッションに勝るものはないような気がする。それだけに、映画化作品では敢えてそれを漫才に変えてあることの効果と巧さに感心した。最後の慰問場面での圧巻は、映画化作品のほうが原作を上回っていたように思うからだ。 また、映画日誌に「直貴が直接的に出会う人々には下品な悪人と言える人物は、誰一人として登場しない」と綴ったように、映画化作品では、あからさまに嫌な人物や悪意のある人物がおらず、「直貴の逆玉の輿ともなりかけた社長令嬢の朝美(吹石一恵)だってつまらない女性じゃなかったし、彼女の父親(風間杜夫)にしても、婚約者にしても、それぞれ限界は負いながらも決して下劣な人物ではなかった。…全ての登場人物に節度も分別も窺えたように思う。それでも、直貴はツライ思いを重ねざるを得ないのだ。」と感じられるよう脚色してあったのだが、原作では、朝美の婚約者と称する嘉島孝文や直貴の同僚の町谷や平野といった下劣な印象を残す人物が登場する。 この点でも、僕は映画化作品のほうが、より主題を明確化させているように感じた。そして、そういう方向への脚色を促したのは、原作の「そのことを知った時、自分は不遇なだけではないのだなと思った。多くの人から応援されているのだ。しかし一方で、彼らは応援はしても自分の手を差し伸べようとはしてくれないのだと再認識した。直貴に幸せになってほしいと思ってはいる。だが自分は関わりたくないのだ。誰か別の人間が助けてやればいいのに--それが本音なのだ。もちろんそれでも、あの髭面の店長に感謝しなければならないことに変わりはなかった。」(P146)との部分だったのではないかという気がした。 驚き感心したのは、映画化作品で僕が台詞を日誌に抜書きした「「あんたがお笑いの夢捨てんと工場辞めたから、うちも美容師の夢のために学校行くことにしてん。」などという涙ぐましいまでのさりげなさで直貴の存在価値に対する肯定感を促す言葉を彼に与える由美子」の場面がなかったことだ。安倍照雄、清水友佳子の脚本は素晴しいと思った。 友人たちの談義で焦点になっていた平野社長に関しては、映画化作品と原作とで僕の印象は大きく変わりはなかった。「差別はね、当然なんだよ」と静かに引導を渡しつつ、「「こつこつと少しずつ社会性を取り戻していくんだ。他の人間との繋がりの糸を、一本ずつ増やしていくしかない。君を中心にした蜘蛛の巣のような繋がりが出来れば、誰も君を無視できなくなる。その第一歩を刻む場所がここだ」そういって足元を指差した。「ここから始めろと…」…「君ならできるさ」「そうでしょうか。社長は俺のことなんか何も御存じないから」…「たしかに私は君のことを殆ど知らない。しかしね、君に人の心を掴む力があることだけは知っている。それがなければ、こんなものが私の元に届いたりしない」平野が差し出したのは一通の手紙だった。」(P273)との示唆を与えた、映画にも登場した最初の場面にしても、それから五年近く経って、蜘蛛の巣のような繋がりを張り巡らすには至らずに、かつてパソコン売り場で生じたことと同じ事態を社宅団地で迎えるに至ったなかで「その状況ならばそうだろうね」と言わざるを得ない局面において、これまでのアプローチとは異なる“苦渋の選択”を考慮する必要性があるのかもしれないとの示唆を「答えなんかはない、選択の問題なんだ」との言葉を添えて与える二度目の場面にしても、また、娘の傷害事件を機に新星電機を辞することにした直貴を訪ねてきて「私にとってもいい勉強になった。君に出会えてよかったよ。感謝する」と気にかけていた三度目の場面においても同様だった。還暦は過ぎているように見え、額が禿げ上がり、残った髪も真っ白い社長たる彼にとっても、決して答えの見つからぬ難問だったわけだ。 映画化作品での印象以上に、原作において、重要な役割を果たしているように感じたのが、直貴の娘への傷害事件を起した前山繁和の両親の存在だった。成人も過ぎた二十一歳の息子に代わって彼らが謝罪に来、後日改めての詫びの手紙と共に東京ディズニーランドのチケットを送ってきたりしていたことについて妻の由実子の言ったことが、兄の起した強盗殺人事件の被害者遺族宅への訪問を直貴に思い立たせていた。「葉書一枚でも出してくれれば、少なくともあの人たちはあの事件のことを忘れてないんだと確認できるから。こっちは忘れたくても、実紀の傷を見るたびに思い出すよ。絶対に忘れられない。でも世間の人はどんどん忘れていくのよね。そのことがあたしたちをさらに傷つける。」(P340)というような台詞は映画化作品にもあったのは覚えているけれども、映画化作品での緒方忠夫への訪問は、どんな契機だったかを俄かに思い出せないでいる。原作どおりだったのだろうか? | |||||
by ヤマ '13. 1. 30. 毎日新聞社単行本 | |||||
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