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『死線を越えて』 | |||||
監督 山田典吾 | |||||
高知市立自由民権記念館が開催した「大正デモクラシーをかけぬけた青春群像−高知県社会労働運動史展」という特別展の同時開催関連企画「キリスト教的人類愛に生きた賀川豊彦の生涯展」のなかで上映された、賀川豊彦原作との映画化作品。国広富之が賀川豊彦を演じていたが、1988年に賀川豊彦の生誕100年記念に作られた映画で、出演者の黒木瞳が28歳、松原千明が30歳のときの作品ということになる。 この映画を観ると、日中戦当時に既に南京虐殺に抗議の声を挙げるキリスト教者たちの集会があって官憲に取り締まられていたようだが、それだと南京虐殺が日本で問題視され始めたのが戦後ではないということになる。賀川豊彦自身の著作にそのような言及があったのだろうか。そのあたりは必ずしも当てにならないような気がしないでもない。その一方で、『白バラの祈り』で描かれていたように、ナチスドイツでも一部の学生たちがいち早くスターリングラードの戦いでの惨状を知り、告発しようとしていたのだから、あり得ないことではないような気もする。 ともあれ、こういう社会運動に生涯携わった人物の史伝などを映画や展示で観ていると、改めて現今の労働戦線の分断と壊滅状況に思いが及ぶ。バブル期を凌ぐ好決算と新聞でも報じられていた大企業の活況のなかで、規制緩和の生み出した企業のための最大の産物とも言える雇用に頼らない労働力調達を合法化した、労働者派遣法を始めとする労働搾取のシステム化が、更には偽装委託までをも引き起こし、賃金抑制どころか切り下げバッシングが留まるところを知らない。 昨今のはやりは、地方公務員の給与を北朝鮮並みに攻撃の矛先にすることで目を逸らせてガス抜きをしつつ、労働者の分断を図る戦略なのだが、そのお先棒を担いでいるのが高給取りの商業マスコミであるところが腹立たしい。友人が「みのもんたなんぞに“我々国民”とか“我々庶民”などと言われたくない。」とmixi日記に書いていたが、ライブドア旋風が吹き荒れた当時、あの日本放送という小さなラジオ局でさえ、臨時職員をも含めた全職員での平均給与が年収一千万だと報じられていたような気がする。だから、売れっ子のフリーランスではなく局付きだと言っても、TVの連中の年収は更に多いはずで、その感覚が普通のサラリーマンとは懸け離れているのは当然で仕方がないにしても、そこのところを棚上げして庶民面されると、友人が書いていたように、やはり「聞いてて、ニュースの内容と関係なく段々気分が悪くなってくる」わけだ。 現在の生協運動にしても、賀川豊彦が想定していたものとは随分と異なってきているのだろうが、労働組合ほか各種の協同組合運動に社会変革の可能性と夢を抱いた彼の目には、勝ち組・負け組などという卑しい言葉が、知識人と称される位置にあるはずの者たちの口にすら公然とのぼる今の状況というのは、全く以て耐え難いものだろうなと思った。 映画的には、そう興趣豊かな作品だと思えなかったのは、やはり賀川豊彦の足跡を辿ることに追われていて、人物像の魅力を映し出すには至っていなかったからだろう。彼が赴任し居を置いたスラムが、映画のなかで語られるほどの凄みを湛えて迫ってこなかったことも影響しているような気がする。 | |||||
by ヤマ '06.11. 4. 自由民権記念館民権ホール | |||||
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