『理想の女[ひと]』(A Good Woman)
監督 マイク・バーカー


 『理想の女』というのは、スカーレット・ヨハンソンのことかと思ってたら、ヘレン・ハントのほうがメインの作品だったことに意表を突かれた。『A Good Woman』の邦題を『理想の女』にしたのは、六年前に公開された同じオスカー・ワイルド原作の映画理想の結婚を意識してのことだったのかもしれないが、『An Ideal Husband』は“Ideal”だから理想でいいけれど、“Good”を理想と訳するのは変だし、ヘレン・ハントが演じていたアーリン夫人に見合っていたようにも思えない。原作戯曲名の『ウィンダミア卿夫人の扇』のほうが遙かに気が利いている。
 名うての性悪の妖婦であるがごとく噂されていたアーリン夫人が、その実、そうではなくて“いい女”だったとの話ということでは、彼女をヘレンが演じていたせいか、悪し様に噂されているらしき時分から既にアーリン夫人が悪辣女には見えず、自分自身の直接的な見聞だけを頼りにして彼女に想いを寄せていたタピィ(トム・ウィルキンソン)のほうが炯眼で、噂に乗せられて敬遠しているウィンダミア卿(マーク・アンバース)のほうが見る目を持たない若造に感じられつつ、実際そのとおりだったという顛末になるのだから、物語的には何の意外性も驚きも仕込まれていない予定調和とも言えるわけで、物足りなさを感じてもおかしくない話だという気がする。それなのに、この作品が充分以上の満足を与えてくれるのは、醍醐味がそういった筋立てにあるのではなく、1930年代に設定された時代的雰囲気と描かれた人物の所作態度を通じて宿っていた“格調”のようなものにあるからなのだろう。
 そういう意味では、つい先頃観た邦画時代劇『花よりもなほ』に通じつつ、『花よりもなほ』が、自分で糞を餅に変える恨みの晴らし方などという高い志を柔らかな娯楽性と気の利いた意匠に包んで巧く描いた作品で、大いに感心させられはするのだけれども、古典落語的な“粋”が命であるべきこじゃれた作品で、映画としての巧さが前面に出てきてしまっていることによって“粋”が損なわれるという“野暮”を踏んでいることが、画竜点睛を欠くような傷になって映画としての艶を減じていたように感じられたことと比べて、『理想の女』は、そのへんの“粋”の味が絶妙であったように思う。
by ヤマ

'06. 6.23. 文化プラザかるぽーと



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