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美術館春の定期上映会 “シリア&イラク映画祭”
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去年の“イラン映画祭2005”に続き、国際交流基金の提供フィルムによる企画上映なのだが、今年の春は、シリアとイラクの映画をそれぞれ四本並べた“シリア&イラク映画祭”であった。残念ながら、初日のシリア映画は仕事で観に行けなかったが、四作品のうち『ジャッカルの夜』('89)も『欲』('91)も、十五年近く前の“第5回高知アジア映画祭”のときに自分たちで上映済みの作品だったから、さほどの無念はなかったのだけれど、二日目のイラク映画を観に行って会った映画友達たちが口を揃えて、僕が観逃したシリア映画『ラジオのリクエスト』('03)を褒めそやす。相手が観てないと知ると嵩に掛かるのは、僕も含めたシネマ好事家の、全く以て悪しき習性ではある(笑)。 今回上映された八作品は、(財)国際文化交流推進協会が“アラブ・イラク映画傑作選”としてパッケージにしているプログラムなのだが、僕らが上映したことのある二作品以外の六作品は、去年の春、国際交流基金が東京で行った“アラブ映画祭2005”で上映した十七作品からのセレクションのようだ。僕がイラクの映画を観るのは今回が初めてなのだが、稀覯映画の勢揃いで、とても興味深かった。 イメージ的にはイスラム色の非常に濃い気がするという僕のイラク映画への先入観に対して、現存する最古のイラク映画だとの第二次世界大戦後間なしの40年代作品『アリアとイサーム』にしても、イラク映画全盛期のものだという70年代作品『乾き』にしても、それぞれ古い部族社会の持つ確執や干ばつに苦しむ地方の農村の疲弊を捉えながらも、物語としての縦軸が共に明確に“恋愛映画としての構造”を備えていることにいささか驚かされた。あとから『忘却のバグダッド』を観て、どうやらイラク映画に対しては、アラブの映画先進国としてのエジプト映画の影響が強そうだと思わされ、得心するところがあった。十八年前に『アレキサンドリアWHY?』と『放蕩息子の帰還』を自分たちで上映したこともある、エジプト映画の巨匠とされるユーセフ・シャヒーンの述懐を待つまでもなく、『忘却のバグダッド』で何度も引用されていたエジプト作品がそうであるように、エジプト映画にはハリウッドの影響がとても色濃いらしいから、イラク映画も自ずとそうなったのかもしれない。 四作品のなかで最も目を惹いたのは、今世紀に入ってからのドキュメンタリー映画である『忘却のバグダッド』だった。「イラク系ユダヤ人」という普段あまり想像の及んでいなかった人たちの肉声に触れ、大いに刺激を受けた。考えてみれば、元々はエジプトから流れてエルサレムあたりに住んでいたユダヤの民が流浪したのなら、その行き着いた先が西欧には限らず近隣諸国でもあったというのは、至極もっともな話だ。イスラエル建国を推進したシオニストに同調して入植した西欧系ユダヤ人が思いのほか少なく、新設国家としての人口確保のために動員されたのはむしろ東方系ユダヤ人で、イスラエル人口の85%を占めているだとか、それにもかかわらず裕福な西欧系ユダヤ人から隠然たる差別を被っているなどということは、今まで考えたこともなかったが、『悲情城市』で知った台湾での本省人と外省人の間の問題に通じるところもある支配構造だ。 とりわけアラブ生まれのユダヤ人においては、イスラエルとアラブの両国家の政治的都合と利害が一致する形で、彼らが生まれ育ったアラブにいられなくなるような情勢を生み出すための謀略事件が工作され、それによりイスラエルへの入植を余儀なくされたという疑念が今も残り続いているらしい。母語がアラブ語で故郷の光景はイラクにあると懐かしむ四人の証言者が、入植してから苦労してヘブライ語を覚えたと語り、そのなかの一人は、イスラエルに住みながら、今もなおアラブ語で著作を続けているそうだ。そんな証言を聞くと、85%を占める人々の全てではなくても、なるほどアラブ語を解するユダヤ人が相当数いることが偲ばれるわけで、アラブとイスラエルの根深い対立構造などというものも、民の側の視点から見れば、国家が体制維持のための必要から作り出していることに過ぎないのではないかとの想いが湧いてくる。 また、西欧系と東方系の間にある差別というものへの認識のほどが両者で大きく違っている姿が図らずもTVショーの生番組のなかであからさまになる場面を観て、政治の都合が作り上げた差別としての“日本での部落差別や在日差別”に通じるものを見たような気がした。実際のところ、イスラエル国家にとっては、このあたりの事情こそが“アラブの脅威”や“パレスチナ問題”を政治的に必要とし続ける一番の理由なのかもしれない。内側でのいびつな支配構造についての問題意識を逸らすためには、外憂にまさる膏薬はないというわけだ。この点では、日本の格差社会化の推進と並行して愛国教育の奨励を劇場型政治におけるメディア戦略という形で国家施策として展開してきた小泉政権の政策は、まさしくアメリカ・イスラエルといった“力任せのならず者国家”の政策路線と符合するものだという気がしてならない。 国家権力というのは、本当にタチの悪い存在だと改めて思う。韓国映画『シルミド』にも出てきた「権力を持つ者が自分の意志で発したものが国家命令だ。」などといった台詞を発する傲岸不遜極まりない考え違いに毒された“権力者”というものを生み出さずには置かないものだという気がする。イスラエルのことで言えば、『ミュンヘン』という映画で最も嫌な印象が残ったのも、こういう権力者の思い上がった闇指令の場面だった。この作品を観たときには、かの女性権力者について“権力者”という観点からの想像しか及ばなかったのだが、今回『忘却のバグダッド』を観たことで背後の事情といったものが少し透けて見えてきたように感じる。 中東問題の根底には、イスラエル国内でのユダヤ人間におけるいびつな支配構造と差別問題が横たわっているのかもしれないという視点は、今まで僕は一度も持ったことがなく、欧米系通信社に支配された国際情報に依存している日本のマスコミ報道や言論からはついぞ得られなかったものだ。僕にとっては、言わばイラク映画のドキュメンタリー作品なればこそのもので、とても新鮮に映った。 今回のプログラムでは最新作となる『露出不足』は、イラク戦争後のバグダッドで撮影された初の長編劇映画だそうで、世界の目にきちんと露出することが決定的に不足していたイラクの人々のことを指したタイトルを持つという意欲作なのだが、残念ながら、映画としては、そのモチーフの大きさ、重さに押し潰されたような作品だった。 それにしても、『アリアとイサーム』の字幕監修のような形で日本赤軍だった足立正生の名を見つけたのには少々驚いた。独立行政法人とはいえ、政府系機関とも言うべき国際交流基金の提供する映画において、日本赤軍のメンバーだった者の名がクレジットされる大らかさは、とても好ましいことなのだが、かつてなら考えられないことではなかろうか。そんなことも含め、実に貴重な映画鑑賞のひとときを過ごした日曜日だった。 | ||||||||||
by ヤマ '06. 6.11. 県立美術館ホール | ||||||||||
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