『ゼブラーマン』
監督 三池崇史


   つい先頃カール・ドライヤーの特集上映を観て、“信じる力”のなんたるかという主題がほぼ半世紀の時を経て今、高い同時代性を帯びてきているような気がすると綴ったばかりだったからかもしれないが、この作品を観て、ふと『奇跡』を想起した。映画の格調というものの一つの到達点とも言えるようなドライヤー作品とB級娯楽映画の極みのような諧謔に満ちたヒーローものが僕のなかで繋がったことが興味深い。現代の日本は、とりわけ人間の“信じる力”が問い直されなければならないほどに、信じることへの不安と懐疑が満ちているのではないかという気がする。「信じる者は救われる」どころか「騙すよりも騙されるほうが悪い」といった下劣きわまりない言葉が公言され、信じることを愚かさの証のように見る風潮が一般化してきてもうどれくらいになるのだろうと僕自身の生きてきた数十年を振り返ってみると、暗澹たる気分になる。

 僕の少年時代にも「騙すよりも騙されるほうが悪い」といった言葉は間違いなく流通していたけれども、そこには必ず反語的ニュアンスが共有されているとの前提があって使われていたような気がする。ホントは騙すほうが悪いのは自明であることを前提にしていればこそ、「騙されるほうも悪い」という忠言が「騙されるほうが悪い」という強調のされ方をしても意味があり赦されるのであって、言葉どおりに騙されるほうが悪いとなってしまっていいはずがない。しかし、今や本当に騙されるほうが悪いと考えている人間が昔よりも圧倒的に多くなり、それに伴って人を騙すことへの心理的ハードルが相対的に随分と低下してきているような気がする。だから、人であれ理想であれ神であれ、信じることへの不安と懐疑が募ってもくるわけだ。信仰者ではない僕から見てさえ、宗教や信仰心というものが過剰に蔑まれているように思われる一方で、それこそ愚にもつかない新興宗教が跋扈し止まらない状況が僕自身の生きてきたこの数十年間であったように思う。時を下るに従って、その傾向はますます顕著になってきているように感じる。そして、対宗教に端を発する形で信じることをバカにするような視線が人々の心の根底のところで醸成してきたものは、信仰にとどまらず、ごく普通に「信じる」ということさえもが許されないように感じる精神状況ではないかという気がしてならない。

 この映画では、ゼブラーマンに憧れるうちに何故か本当にゼブラーマンになってしまう冴えない小学校教師の市川新市(哀川翔)が、空を飛べないゼブラーマンの宿命故に戦死が約束されていることを知りつつエイリアンとの闘いに挑む。そして、ゼブラーマンファンとしての師と仰ぐ小学生浅野晋平(安河内ナオキ)がゼブラーマンは空を飛べるようになると信じていることに応えようとしつつも、自らが信じるまでは一向に飛べない代わりに、自ら信じることができた証のようにして、土壇場のところで飛翔できるようになる。この顛末自体は、たわいもないと言えばそれまでのような話なのだが、その過程での描かれ方において、まさに人間の“信じる力”が問い直されているといった時代的主題を背景として意識しているような殊更の重大事として強調されていた。ゼブラーマンの飛翔能力の鍵を握っていたのは、ゼブラーマン自身がそれを信じられるか否かで、且つそれのみであった。

 主人公の家庭状況や職場環境のみならず、さまざまな場面設定やキャラクター造形において際だった同時代性を意識した構築を果たしているだけに、愚直なまでに“信じる力”に重きを置くことで、そのことが極めてアクチュアルな問題であることを浮かび上がらせているように感じた。だからこそ、全く異質の作品に思えるようなカール・ドライヤーの『奇跡』を僕が想起したのだろう。

 看護婦・浅野可奈(鈴木京香)のゼブラーナースの怪しさにニンマリし、防衛庁特殊機密部指揮官・及川(渡部篤郎)の脱力体質に我が身を重ねつつ、教頭(大杉漣)や謎のカニ男(柄本明)、特殊機密部長・神田(岩松了)や防衛庁機密調査部員・瀬川(近藤公園)、体育教師・一本木(内村光良)のカリカチュアライズされた人物像を笑い、いささか品なくやりすぎの演出を加えているところに少々うんざりしながらも、今の時代をうまく捉えているようには感じた。

by ヤマ

'04. 2.21. 高知東映



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