『ロボコン』(Robot Contest)
監督 古厩智之


 地方都市に住みながら、幸いにして僕は、これまでの古厩作品のほとんどをスクリーンで鑑賞する機会を得ている。十年前に神戸で『灼熱のドッジボール』を観、一昨年・昨年と続けて地元での自主上映で『この窓は君のもの』『まぶだち』を観ることができた。観るたびにその年々の私的ベスト5にランクインし、昨年度は『まぶだち』を僕は日本映画のベストワンにした。そして、作品を重ねるごとに着実に飛躍を遂げているさまと一向に失われない瑞々しさに瞠目し、僕が最も期待を寄せる日本の映画監督の一人となった。その古厩智之が、地方都市でも公開時に映画館で観られる作品を撮ったとのことで、抑えて止みがたい期待を秘めて観に行くことになった。

 結果的には、やはりそれが仇となったようなところがある。爽やかないい映画であることは論を待たない。高専生徒の理数系的根暗さの加減を巧く捉えつつの爽やかさであるところもまたいい。若さを礼賛するばかりでなく、寄る辺なき不安とともにある成長を汲み取っているところに好感が持てる。そして、若者が成長できるのは、そういう内なる不安を秘めながら、どこか無防備に状況に身を預け、投げ出し没頭できる潔さが掛け替えのないものとして備わっているからだということも、作り手はよく知っている。そういう若さを仲間という形で交感し合えるところにこそ秘訣があるのだと僕も思う。

 けれども、僕は少々がっかりしていた。これまでの古厩作品に満ち満ちていた濃密な行間の充実によって息づいていた人物造形が、この作品では随分と希薄になっているような気がしたからだ。物語とも主題とも直接的には結び付くわけではない部分に宿っていた希有な味わいが薄れてしまい、登場人物たちが物語を展開していくうえで果すべきキャラクターとしての、類型的と言ってもいいような役割を担って進行していた印象がある。帰宅後、チラシを観ると、奇しくも四人の第2ロボット部のメンバーそれぞれが紋切型のキャラ説明とともに示されていた。いわく、里美(長澤まさみ)担当:操縦「生来の勝気は影を潜め、ちかごろめんどくさいが口癖のやる気ゼロ娘」、航一(小栗 旬)担当:設計「仲間意識ゼロの天才設計者」、四谷(伊藤淳史)担当:作戦「部長なのに統率力ゼロのロボコンおたく」、竹内(塚本高史)担当:組立「腕はピカイチだが、忍耐力ゼロの技術系」。映画のなかの彼らが勿論このまんまというわけではないのだが、『まぶだち』のときのような奥行は望むべくもない。里美が何故か、山口百恵の歌のなかでも僕の最も好きな『夢先案内人』を歌っていて航一に咎められた後、咎め返したときに航一が零した台詞には、そのぼそっと零した感じともども古厩らしさを感じたものの、予備のガスボンベを用意し忘れたまま決勝に臨むに当たって、負かしたばかりの相手の第1ロボット部長(荒川良々)が差し出したボンベを借りようとしなかったところは納得なのに、そのときの演出と彼らの台詞が何か違うなぁという違和感を残すものだった。また、この場面に限らず、全体の流れやリズムにどうもチグハグ感というか気持ちよく乗れない感じが付きまとっていた。

 題材がロボコンということで事前には気をよくしていたのだが、これも僕にとっては裏目に出たようなところがある。もう随分と前のことになるのだが、ひところNHKでロボコンを観るのを僕は楽しみにしていたことがあった。何度かTVを観ていてジーンときたこともある。その記憶からすると、かなり巧くロボコン精神を伝え、意表を突くアイデアとハプニングに翻弄される戦いの妙味をなかなか上手に伝えてはいるのだけれど、やはり本物との空気の違いがあって、TVで観ていたときのようにジーンとくるには至らなかった。

 いろいろな事々が重なって、僕には残念なことになったのだが、ふと想起したのが、ジュブナイルだった。あれも爽やかで後味のいい映画だったが、あの作品をあんなふうに楽しめながら、この作品に乗れなかったりするところが映画との出会い方の微妙でむずかしいところだと思う。もっとも、それだからこそ、観てみないことには解らないという楽しみもまたあるわけだ。


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0309-2robo.html
推薦テクスト:「シネマ・チリペーパー」より
http://homepage3.nifty.com/ccp/hihyou/ROBOCONT.html
by ヤマ

'03.10. 1. 東宝3



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