『トーク・トゥ・ハー』をめぐって | |
(TAOさん) 「多足の思考回路」:(めだかさん) 「La Dolce vita」:(グロリアさん) 「Across 211th Street」:(Tiさん) (イノセントさん) ヤマ(管理人) |
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----------2003/11/20 日誌のアップ前から--------------- ヤマ(管理人) アルモドバル絡みで言えば、一昨日、『トーク・トゥ・ハー』は観たんですけどね〜。これがまぁ、いろいろとすっきりしない観後感があって(苦笑)。ちょっと反芻整理しているとこ(笑)。 (TAOさん) おや、そうなんですかー。私はまたアルモドバルにしては、ほどよくすっきりまとまったなあと感じたのでした。 ヤマ(管理人) まとまりってことでは、僕もすっきり仕上げてたと思います。すっきりしないのは、僕の観後感のほうで(苦笑)。 (TAOさん) 前作「オールアバウト・マイ・マザー」はすっきりせず、さんざんどこが気に入らないかを反芻したものでしたが(笑)。 ヤマ(管理人) これ、これ、こっちの感じですよ、今回の僕のも(笑)。 (TAOさん) まとまったらぜひアップしてください。楽しみに待ってますから。 ヤマ(管理人) それは恐縮です。でも、すっきりまとまるかしら?(笑) (めだかさん) 横から失礼しますが、『トーク・トゥー・ハー』で複雑になっておいでの様子を見せて頂いて、ニヤリとしてます。私もアップを楽しみにさせて頂きます。 ヤマ(管理人) ようこそ、めだかさん。 あちゃ、うっかりマズイこと書いちゃったかも(苦笑)。そうですか、楽しみにしてくださいますか...(笑)。ありがたいことながら、ちょび不安(あは)。 (グロリアさん) あ、わたしも「オールアバウトマイマザー」は、すっきりしなくて、友人が絶賛するのが腑に落ちなかったんです。 ヤマ(管理人) ようこそ、グロリアさん。 僕は、少し物足りなかったって思いも含めて、この作品については、観後感自体はすっきりしてて、日誌もすんなり綴ったんですけどねー。 (TAOさん) グロリアさんもそうでしたか。 私は、とある掲示板であーでもない、こーでもないと、くどくどと反芻させてもらってるうちに、むしろ充実感すら感じてしまって(笑)、好きではないけど、無視できない作品だったんだなあと実感したことでした。 ヤマ(管理人) こういうことって、ままありますね。僕も日誌綴るの見送りながら、往復書簡の編集採録をアップしているものがいくつかありますが、そういう感じかも。クローネンバーグの『スパイダー』とか(笑)。 (TAOさん) あ、あのクローネンバーグの『スパイダー』の往復書簡は、面白かったです。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。しまいには「そこまで想像して楽しくなかったの?(不思議)」なんて言われてますが、自力到達点じゃないですもんね(苦笑)。意見交換のなかで掘り下げていくエネルギーを貰ったから、あれこれ考えることができたわけで、作品自体がそこまでのエネルギーをくれたワケじゃなかったってことですよ(笑)。 (TAOさん) じつは私、まだ映画は見てないんですが、見たらまた蒸し変えさせてもらおうかな(笑)。 ヤマ(管理人) ご覧になる前に読んでくださったんですか。いやぁ〜、例によってネタバレ配慮なんて微塵もないやつで恐縮です。もっともTAOさん、先刻承知の助で読んでくださったんでしょうけど(笑)。 (TAOさん) 見た後に楽しませてもらったという点では、「アバウト・マイ・マザー」は、ここでさんざん反芻させてもらった「アイズワイドシャット」といい勝負でした(笑)。 ヤマ(管理人) ああ、『アイズ・ワイド・シャット』ですか。あれは盛り上がりましたね〜。思えば、あれが掲示板編集採録を始めるきっかけになったんでしたよ。 (TAOさん) ヤマさんの「トーク・トゥ・ハー」も私の「アバウト・マイ・マザー」みたいな感じでしょうかね? ヤマ(管理人) へっへ〜、日誌綴りましたよ、何とか。次回の更新でアップしますね。 (TAOさん) それは楽しみです。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。もう書いちゃいましたから、それなりに整理できたというか、ある見解に至ったんですが、けっこう自分の中では面白い揺れというか迷いでしたね(苦笑)。あ、でも、日誌ではそんなに揺れてませんけど(笑)。 (Tiさん) ヤマさん、こんにちは。どうもご無沙汰しております ヤマ(管理人) ようこそ、Tiさん、お久しぶりです〜。そろそろ落ち着かれましたか、アメリカ暮らしも。 (Tiさん) うーん、英語はまだまだです…。 『トーク・トゥ・ハー』ですが、僕はベニグノの行為にも、その後の態度にもおぞましさを感じちゃって、どうしてもダメでした。 ヤマ(管理人) 僕は、行為自体にしてもベニグノの態度にしても、それが描かれること自体での不快感に見舞われたわけではないのです。ピグマリオン的な倒錯性やネクロフィリアというものを人間のなかにある断面の一つとして捉え、そこに目を向ける視線それ自体には共感も支持もあります。ですが、それだけにすっきりしない観後感が残ったことに戸惑ったのでした。 (Tiさん) 僕も、変態だからゲンナリしたわけじゃないんですよー。 ヤマ(管理人) あ、そうだったんですか。あのような性倒錯自体に対して違和感をお感じになったのかと思ってました(詫)。 (Tiさん) SM純愛映画『セクレタリー』を観たときも、「お互いが望んでて、世間様に迷惑かけないんなら、もう好きなだけおやんなさい〜」って思いましたし(笑)。 ヤマ(管理人) 『セクレタリー』は観たいと思ってるんですが、こちらでの上映の話は聞こえてきてません(とほほ)。 (Tiさん) 『トーク・トゥ・ハー』では、性のモラル以前に、アリシアがあの状態で妊娠したらどうなるかってことをベニグノは考えてませんし、実際に彼女の命を危うくしたことへの反省や後悔が、僕には最後まで見えなかったんですよね。結局、彼は思い込みと自己満足ばかりで、実際には彼女のことをちっとも思い遣ってなかったのかな…と思いました。 ヤマ(管理人) はいはい、ここかなり重要なポイントですね。僕も日誌に「僕には、ベニグノが眠り続けるアリシアに求め、向けていた言葉や行為がコミュニケーションだとも、関係性としての愛だとも、心底では思えずにいた」と綴っております。 (Tiさん) 相手を尊重したいっていう意思や願いがあって、結果的に一方通行になっちゃったんなら共感できるんですけど、ここまで独りよがりなのを愛情とは思いたくないんですよね…。 ヤマ(管理人) ですが、そういうふうにしか愛せない哀しみというものも、あったりはするのでしょう。ただ、それをどう観るかというところが見解の分かれてくるところで、僕自身もどちらかと言えば、Tiさんと近い受け止め方をしていたようです。 そこのところが、すっきりしなかった理由だったような気がしていますが、僕はベニグノの愛情の持ち方とかに異議を唱えたくなる感じというよりも少し違う反応の仕方をしていたぶん、自分の中でしばらく落ち着きが悪いという感じが続いていたようです。 (Tiさん) 序盤で二人の絆の強さにうっとりしてただけに、その後の種明かしがすごくショックだったんですよね…。 ヤマ(管理人) なんだ、ストーカーかよって?(笑) それでも、一応は他力本願というか運命というか、主治医の抜擢推薦があって、たまたま願いどおり叶ったことにはなってましたよね。 (Tiさん) もし時系列に沿って描かれてたら、印象は違ったかもしれません。 ヤマ(管理人) それじゃあ、ダメなんじゃないでしょうかね、映画として(笑)。 結果的にはTiさんにとって「負」であったにしても、とにもかくも、そこでショックなりサプライズがあったわけで、うっとりとゲンナリを分け違えているものが、その行為自体ではないことを自覚させられなくなります、時系列に沿っていると。 (Tiさん) カナディアン・テイストのドキュメンタリーにメディアとの関わり方を揺さぶられるのはエキサイティングですけど、映画で愛情に関してこんな風に挑発されるのは、僕の精神衛生にはあんまりよろしくなかったです(笑)。 ヤマ(管理人) 僕も結構もやもやを引きずりましたから、精神衛生上はよろしくなかったかも(笑)。ただ面白いっていう点では、引きずった分、あれこれ考えたりしましたんで、よけいに楽しんだかも(苦笑)。どういうふうになっていたら、自分はスッキリしたのだろう、なんてことも考えて今回の日誌には綴りましたからね(笑)。 (Tiさん) …で、気持ちを整理してみて判りましたけど、もしサプライズがなくても、やっぱり僕は退いちゃってたと思います(とほほ)。 ヤマ(管理人) 羨望と共に同化しちゃうとかなりヤバイですから、そのほうがいいですよ、勿論(笑)。 (Tiさん) 『ライブ・フレッシュ』の善悪割り切れない感じは、好きだったんですけどねー。 ヤマ(管理人) 僕は『ライブ・フレッシュ』は観てないですけれど、この「善悪割り切れない感じ」っていうのが「男女の区別も割り切れない」「アブとノーマルの区別も割り切れない」とも通じる、アルモドバルの「割り切らない」三大受容力(笑)の肝要部ですよね。 それがあるから、余計に悩ましかったわけです、今回『トーク・トゥ・ハー』を観終えた後(苦笑)。 ----------2003/11/30 映画日誌掲載--------------------- ------------------------------------------------------ ----------ベニグノの悲劇の描かれ方-------------------- (イノセントさん) 『トーク・トゥー・ハー』の感想拝読しました。 ヤマ(管理人) ようこそ、イノセントさん。ありがとうございます。 (イノセントさん) ヤマさんは、ベニグノの愛し方=ストーカー的と読みとって、その末期がご不満のようですね。僕も、彼の愛し方はストーカー以外の何物でもないと思います。でも僕は、ベニグノに重ね合わせて現代人の悲劇を強く感じました。 ヤマ(管理人) ええ、僕も「それをそういうふうにしか愛せない哀しみと孤独として描くに留まっていれば、ある意味で広く恋愛感情に普遍的に内在する側面でもある」と綴ったように、ストーカー的にしか愛せないこと自体に反発しているわけではありませんよ。それは、道義的にどうだこうだと言ったところで、当人には悲劇的にもそういうふうにしか愛せないのだから、どうしようもありませんよね。 (イノセントさん) 人恋しいのに人と面と向かって接することができないベニグノ、純粋だが極めて一方的、ストーカーでしかないのに、それを献身的な愛だと信じて疑わない。最後まで人と心を通わすことを知らずに、自殺するわけですから、これほどの悲劇はないわけです。 ヤマ(管理人) そうですよね〜。僕は意地悪くも、もっと悲劇的な顛末をベニグノに求めていますが、それも思い余っての犯罪行為に及んでいればこそで、そうでなければ、おっしゃるような悲劇に殉じていても、また、たとえ犯罪行為に及んでいたって、そのことを愛の奇跡のように描いてさえいなければ、僕にも違和感は残らなかったような気がするんですよ。 (イノセントさん) 映画では、昏睡状態の女性が妊娠で目覚めるわけですから、奇跡的な出来事として描いているわけですが、ベニグノのような人は、今の世の中極めて多く、カウンセリングに通うのも珍しいことではなくなっています。 ヤマ(管理人) そうですね。特に倒錯的趣味を持つとか持たないに関わらず、コミュニケーション不全というのは、人間に普遍的な課題ですよね、特に現代人には。 (イノセントさん) 自殺せずに、愛に苦悩するベニグノを描いたほうが道義的には、納得できるかもしれませんが、僕は現実に目を向けられないまま自殺してしまったベニグノの悲劇(決して殉愛ではなく)が逆に印象に残りました。 ヤマ(管理人) 現実に目を向けられないままの自殺ということ自体は、犯罪行為に愛の奇跡の色づけをするしないとに関わらず描き得ることだという気がします。けれども、アリシアに奇跡的な蘇生をもたらしているにも関わらず、という展開のほうが、ベニグノの悲劇は、より悲劇的になるということも考えられなくはありませんね。 でも、僕には逆に作用したようなんですよ。 (イノセントさん) 獄中、面会に来たマルコに「好きだ」と言ったシーンがありましたが、あれは彼の生涯で唯一、人と心を通わせた一瞬だったから出た言葉ではなかったのでしょうか。 ヤマ(管理人) これについては、僕もまさしくそのように思います。だから、ベニグノとて、必ずしも最後まで人と心を通わすことを知らないままに自殺したわけではないように思います。 あ、そーだ、むしろ知り得たからこそ、死を選んだのかもしれませんね。 マルコとの通い合いは、単に魂を引き継いだという側面だけではないような気がしてきました。ある意味で、マルコとの関わりによって心の通い合いを体感したことで、逆に、あれほど深く愛していたと自分が思っていたアリシアへの愛が一方的なもので、通い合いというものではなかったということに気づいたのかも。ふーむ、これは、かなり重要そうだなぁ。 (イノセントさん) 多分、僕が書いたことはこの映画の主題とは外れた部分の感想で、監督の意図しない解釈になるでしょう。 ヤマ(管理人) そんなことないと思いますよ。監督の意図までは保証できませんが、むしろ主題の核心部分についての感想だと感じますね。 (イノセントさん) そして、感動した観客の多くは、ベニグノの愛を献身的な愛だと感じ、こんな愛し方もありだと思ったのでしょうけどね。 ヤマ(管理人) ええ、そこんとこは、僕もそんなふうに思いました。でも、作り手の意図は、どうもそんなに単純ではないようにも感じました。だから、「突飛な思い付き」などと言いながらも、『カノン』なんかを想起したんでしょうね、僕は(笑)。 いやぁ、でも、とても刺激的な触発をいただきました。ベニグノの絶望に込められた色合いがひとつ深みを増して映ってきましたよ。ありがとうございました。 (TAOさん) 私もベニグノはストーカー以外の何者でもないと思います。 ヤマ(管理人) ですよね〜(笑)。 (TAOさん) アルモドバルの初期の作品「アタメ」では、アントニオ・バンデラス演じるストーカーがポルノ女優を拉致監禁して逃亡するうちに、女優のほうも彼を好きになってしまって、めでたしめでたしでしたね。 ヤマ(管理人) 終わりよければ...(笑)。 でも、『アタメ』は僕も好きな作品なんです。バスタブで、ふにょふにょと女体めざして進むイエローサブマリン、好きでした(笑)。リンチの『ワイルド・アット・ハート』と並べた日誌をむかし綴ってるんですけど、僕の軍配は、断然『アタメ』!(笑) (TAOさん) デニス・ホッパーの「ハートに火を付けて」と並ぶ、ストーカー型純愛コメディの佳作だと思いますが、本作では、ストーカー行為を純愛の言い訳にせず、 ヤマ(管理人) 言い訳どころか、愛の奇跡に昇華しちゃってません?(笑) (TAOさん) 棘が刺さったままのような結末にしたこところがさらにいいなと思います。 純愛→奇蹟より、浅ましくもおぞましい行為→奇蹟のほうが、人生への洞察としてははるかにディープな気がして。 ヤマ(管理人) あ、そーか、反転パワーってとこがディープで、受け取る側には棘ともなるというわけですね。 (TAOさん) ところで、ヤマさんの日誌を拝見し、ベニグノの末期について、なぜ私はすっきりしたのかを改めて考えてみました。 もしかしたら、生理的な要素が強いのかもしれません。 ヤマ(管理人) ほほぅ。 (TAOさん) つまり、意識のない間に性的な対象にされるというのは、女性の立場から考えると、どう考えても不快で、この世からすみやかに消えてもらって、ようやく哀れみもわくというものではないでしょうか。 ヤマ(管理人) とにかく、この世から消え去ってしまえ、と(笑)。 (TAOさん) とはいえ、それなしには再び意識を取り戻すことはできなかったことを考えると、神の見えざる手(ちょっと意味がちがうけど)を思わずにはいられないわけですが、かといって加害者への嫌悪感は消えません。 ヤマ(管理人) この双方の清算というのが「この世からすみやかに消えてもらう」ってことですね。ああいうふうにしか愛せない哀しみと孤独を抱えたベニグノの悲劇も、「この世から消え去る清算」抜きには哀れみを誘い得ないと。 うん、それはそうかも。ある意味、より手厳しいのかもしれませんね、このほうが。 (TAOさん) ヤマさんがベニグノにさらなる苦悩を求めるキモチもわかるのですが、やはり奇蹟を知ることなく絶望のまま死ぬほうが哀れでいい気がします。 ヤマ(管理人) その哀れが同情を誘うようなとこがあるのはまだしも、僕にはディープな奇跡がどうもスッキリしなかったようです。でも、この「絶望」にイノセントさんが触発してくださったようなニュアンスが潜んでいたとなると、少し印象が異なってきますね。 そうなると、マルコへの魂の引き継ぎによるベニグノの愛の勝利ではなくて、一旦きっちりと己が愛の不毛に絶望し、打ち敗れたベニグノの愛がマルコによって引き継がれて再生し、やり直されるってイメージに変わってきます。 (TAOさん) いや、哀れでいいどころか、死んでくれないと困ります(笑)。 ヤマ(管理人) ま、確かに生きてまとわりつかれると、アリシア、さらに気の毒ですからねー(笑)。でも、奇跡の蘇生こそ、自分が正当に迎え入れられるべき根拠だと思える形でベニグノに取り憑いちゃうってのもディープでしょ。陳腐かもしれないけど(苦笑)。 (TAOさん) ある意味 恩人とはえ、女の身としては、加害者と同じ空気を吸いたくないというか。このへんが、ベニグノがあっさり死んでしまうのを同性として許せないヤマさんとのちがいかもしれませんね。 ヤマ(管理人) 確かに(苦笑)。ベニグノ、太股のみならず、ですし(笑)。 (TAOさん) そうそう、そーだ、ヤマさんもやはり太ももにぐっと来ましたか(笑)。 見舞いに来た実のおとうさんが思わず目をそむけてましたね。痩せすぎず太りすぎず、じつに魅惑的な肉付きでした。 ヤマ(管理人) TAOさん、こういうとこへの言及だけは逃しませんね(笑)。でも、ま、僕の日誌も、これをもって〆の言葉にしてるんだから、そちらのせいばかりじゃありませんな(笑)。 (TAOさん) フェティッシュな部分では、闘牛士のコスチュームのあでやかさにもため息が出ました。 ヤマ(管理人) あら、締め上げて着用するとこじゃなく?(笑) それはともかく、あっさり死んでしまうのを許せないってことでは、死ぬ、死なないは、まだしも、なんですよね。やっぱり、僕にはどうも、あの顛末が結果的に一途な愛の勝利とも見えるような形になっているところが「浅ましくもおぞましい行為→奇蹟」との色づけよりも更に気に入らなかったみたいですね。だから、同じ顛末を辿っても、解釈ひとつで上に書いたように、一途な愛の勝利というふうに見えてこなくなれば、あれでも別にOKじゃないかっていう気になってきますよ(笑)。 (TAOさん) でも、日誌にお書きの、アリシア復活を知った彼が苦悩する結末もたしかにありだと思うんですよ。 ヤマ(管理人) いや、凡庸なんですけどね、それだと(苦笑)。でも、意外性で唸らせるのではない丹念な演出と描出が必要になりますね。ま、アルモドバルには、それも勿論できる力量があるんでしょうが。 (TAOさん) でも、そうなるとチャップリンになっちゃう。「街の火」みたいに、みずから身を引いたりして。ま、チャップリンにレイプはありえませんが(笑)。 ヤマ(管理人) いや、僕が想定していたのは、自ら身を引いたんでは話になりません。ストーカーに徹して拒まれて悪循環のうちにボロボロにならなきゃ(笑)。 ----------ラストシークェンスに登場した空席------------ (TAOさん) ところで、イノセントさんの、面会に来たマルコに「好きだ」と言ったシーンでの指摘、同感です。付け加えると、ラストシーンの二人の間の空席は、死んだベニグノの席ですよね。 ヤマ(管理人) 彼の席があることが、彼の愛の勝利なのか、やり直しなのか、これはどっちにでも解せますね。 (TAOさん) あのシーンは、哀れなベニグノが、大好きなマルコを通じてようやく生きた女性と向き合えるかもしれないことを暗示しているように見えました。 生きた女を相手にするには、二人がかりでかからないとダメみたいな。 ヤマ(管理人) わはは、確かに一対一じゃ分が悪いです、ハイ(笑)。 (TAOさん) マルコも、ベニグノに比べれば女性にもてるけど、いつも今一歩相手に踏み込めずに終わっているようでしたから、 ヤマ(管理人) 仮死状態のリディアへの態度をベニグノに指摘されてましたね。 (TAOさん) 踏み込みすぎのベニグノの力を借りてちょうどいい塩梅になるんじゃないでしょうか。 ヤマ(管理人) すんなりとハッピーエンドって塩梅ですか。ディープなハッピーエンドですね(笑)。 でも、そうするとTAOさんは、ハナから「やり直し」のイメージで受け取っておられたようですね。じゃあ、モヤモヤしたりはしないのも道理だな。 (TAOさん) ははあ、ラストが、彼の愛の勝利なのかやり直しなのかってことは、ヤマさんは、奇蹟→愛の勝利だと受け取っていたんですねえ。なるほど、それじゃあモヤモヤするでしょう。 ヤマ(管理人) そうそう、犯罪行為→奇跡→愛の勝利。犯罪行為→奇跡=愛の勝利ではなく、「→愛の勝利」って(笑)。 (TAOさん) 私はそんなことこれっぽちも考えず、 ヤマ(管理人) 僕がそう感じたのは、たぶん、あのマルコとベニグノの顔が面会室で二重写しになった場面とラストで、マルコとアリシアのこれからを予感させる演出によって、死したベニグノの魂がマルコに引き継がれ、マルコという実体を介して、ようやくベニグノの思いは叶うことになるのだなと受け取れる終幕だったからでしょう。 ガラスの反射でマルコの顔にベニグノの顔が重なって、ベニグノの語りがマルコに映し込まれているシーンが、逆にベニグノの顔の上にマルコの顔が重なる形になっていれば、今度はマルコの魂がベニグノに乗り移っていくことになるので、ラストの今後の予感というものも、ベニグノの思いとは必ずしも関係はなくて、マルコが、マルコ自身の思いで、ある意味、死した忘れがたき友ベニグノに成り代わってとの感じも秘めてアリシアに接近したとて、別にベニグノの愛の勝利だということにはなりませんよね。マルコの選択ですから。 でも、ベニグノがマルコに宿った形の演出をして、そのマルコにアリシアとの予感を与える演出をすれば、それは、ベニグノがどう、マルコがどう、ということではなく、作り手の意図が、ベニグノにアリシアとの関係性の始まりを与えたような印象を残しますよ。だから、それをもってベニグノの愛の勝利と僕は感じ、すっきりしなかったんでしょう。でも、彼の死に、自らの愛の不毛への気づきがあっての絶望というニュアンスを読み取れば、このあたりがすごく変わって来るんですよね。同じ演出、同じ展開でも。 (イノセントさん) そうだといいのですが、僕はベニグノに愛の不毛への気付きはなかったように思います。親に引き裂かれた絶望に加え、子供の死産の知らせに、生きる望みを失ったのではないでしょうか? ヤマ(管理人) 僕も元々はそういうふうに受け取っていたんですよ。そうすると、どうもその後の展開がスッキリしないものに感じられてああいう日誌を綴ったのですが、もし、彼の自死の選択において、そういう気付きが作用していたとの読み取りが可能なら、僕にとってその後の展開への不全感が解消されることになるなぁと感じたのです。 そして、そう読み取ることのできる材料自体はあったなという気付きを与えていただきました。でも、もちろんそれは映画を観て受け取っていたことではありません。けれども、僕にとっては、スッキリさせる良薬かもって思いはあります。 (TAOさん) 私はただ、醜悪な行為から奇蹟が生まれるなんて、さすが人の悪いアルモドバルだなと(笑)。 ヤマ(管理人) でも、醜悪な行為から奇蹟が生まれるって展開以上の人の悪さが、意味深長さが、ラストに籠もっているんですよねぇ(笑)。 (めだかさん) このところの『トーク・トゥー・ハー』についての対話を大変、面白く拝見させて頂いています。TAOさんのご意見に頷くことしきりです。 ヤマ(管理人) ようこそ、めだかさん。えぇ、そうなんですよ、僕も非常にたくさんの触発・刺激が得られて、たいへん嬉しく思っています。 (めだかさん) 私が最後が納得だったのには、劇場でのアリシアとマルコの客席の配置があります。細かいことですが、あの縦に並んだ配置だとベニグノがマルコに引き継がれたようには感じられなかったんですね。 ヤマ(管理人) これは、ちょっとうろ覚えで自信がないんですが、マルコが前で、アリシアが後ろに座っていたんでしたっけ? (めだかさん) そうです。それまでの座る配置は最初のマルコとベニグノの『カフェ・ミュラー』観賞からずっと横に並ぶばかりでしたから、刑務所での対面と最後の座席配置は印象的でした。 でも、面会室でのガラスに映った順番には気が付いていませんでした。なるほど。 ヤマ(管理人) あ、これは順番に映ったんではなくて、マルコの顔にベニグノの顔が反射によって映りこむ形で画面構成がされていたということですよ。逆の映り込みではないとこが重要なんです。 (めだかさん) なるほど。私は最後の座席配置では、ベニグノはアリシアに背を向けた形になるので、むしろ、マルコにとって永遠のお邪魔虫のように感じられたというか…(笑)。 ヤマ(管理人) ん?、これ、ちょっと解りにくいんですが、最後の舞台鑑賞の席の配置のことではないんですか? ベニグノというのは?? あ、そうか、縦の列における、TAOさんの指摘していた空席のことか(納得)。んで、それが挟雑者として邪魔しているってことなんですね。ほほぅ、そういう観方もありますか。 (めだかさん) 言葉足らずですみません。そういう意味ではありませんでした。アリシアから見るとベニグノは後姿しか見えず顔の無い姿で、一方、マルコはアリシアに向かうためには後ろを振り向かなくてはならず、振り向けば必ずベニグノに向うことになるという意味です。遮る者ではなく、付加物としての邪魔者です。 ヤマ(管理人) そーか、邪魔者と言うより、アリシアとマルコが深く関わっていくうえで、ベニグノの存在は乗り越えなければならない課題だっていうことなんですね。それはそうですね。 位置関係で言えば、間に挟まっているかではなく、向き合ってないよってことが重要なんですね。むしろ、横に並んでいるよりも却って向き合いにくくなっているよ、と。なるほどね。 でも、それだとしたら、ベニグノは視界をさえぎってもいないわけだし、僕には邪魔している存在だとは余り思えないですねー。むしろ、介在者として見えない形で繋いでいる存在だろうって思います。 (めだかさん) 視界は遮ってないですが、アリシアだけを見るわけにはいかないでしょうから(笑) ヤマ(管理人) でも、マルコにとって、ベニグノ抜きの視線でのアリシアっていうのも、あの段階では、まだ不自然ですよね、却って。 (TAOさん) おおー、それもありです、永遠のお邪魔虫!(笑)。私は、あの空席はベニグノへの陰膳のような役割と、もうひとつあのふたりがほんとに向かい合うためには、マルコが本気で踏み込まなくてはいけないことを表してるんだろうと思ってました。それがうまくいったときに、ベニグノ=お邪魔虫は成仏するわけです(笑)。 (めだかさん) アリシアだけを見るわけにはいかないのだから、もしかしたらTAOさんのこの踏み込みについてのご意見にも通じるものがあるかもしれません。マルコがアリシアに本気で向うつもりなら、ベニグノも本気で相手にしろよ、と(笑)。 ヤマ(管理人) 僕は、マルコが収監されたベニグノを訪ねていったのは、本気で相手してたからだと思ったんですけどね。普通なら、相手にしないか、興味本位の取材に向かうってことになりそうですが、マルコにとってベニグノの存在はそうではないからこそ、ああいう面会の仕方になっていたのだと思いましたよ。 (めだかさん) あ、でも、ベニグノの存在は乗り越えなければならない課題だっていう意味だと、マルコとベニグノの2人がかりでアリシアの相手をするというよりは、マルコ1人でベニグノとアリシアの2人を相手にすることになっちゃいますね。 マルコは大変だわ^^; ヤマ(管理人) 確かに(笑)。でも、彼が踏み込めるようになるとしたら、それはベニグノとの出会いが与えてくれた力なのでしょうから、課題を乗り越えることのほうも負わなきゃいけませんね。いいとこ取りはできないとしたものでしょう。 (めだかさん) でもそれは、マルコがアリシアに向うならば刑務所での対面の時のようにマルコにベニグノの魂が映り込むこと、と取ることもできますね。そうか、ベニグノの相手をするんじゃなくてやはり同化かな。 ヤマ(管理人) 魂を引き継いで、一旦同化して踏み込んだ後、それを乗り越えていけなければ、アリシアとの関係はまっとうできないってことかもしれませんね。 ----------赤ん坊と死産の持つ意味---------------------- (TAOさん) ベニグノはアリシアの蘇生はもとより期待せず、ただ子どもが無事に生まれたかどうかを気にしていましたよね。彼にとっては赤ちゃんが愛の勝利の証だったわけで、 ヤマ(管理人) そうですね。少なくとも、あの行為は蘇生を呼び寄せるためにやむなく行ったというわけではありませんでしたよね。そもそも蘇生を求めていたとも思えないし。だって、眠っていても、通じていて、受け入れられていると信じているんですから、彼自身にとっては、蘇生は別段、求める必要のないことですものね。 子どもの誕生に執着していたのは、そう言えば、なぜなんだろう。 やはり、彼にとっての愛の勝利の証ということですかね。子どもは、愛の勝利の証と言うよりも、愛の落とし前の証のような気もしなくはありませんが(笑)。自ら育てられない証なんて、それが子供という存在なればこそ、勝利の証とも言えないような気が僕にはするんですけどね。でも、一般的には、子どもをその存在自体で以て愛の勝利の証と見る向きが多いでしょうね。そーか、そう意味づけるなら、ベニグノはそこでも一旦は愛に敗北しているわけですね。僕は、願い叶わず、運命に敗北したように受け取ってたんですよ。 (TAOさん) でも、もしアリシアが生き返ったと知っていたら、当惑したでしょうね。彼は一途どころか、心の奥ではアリシアを永久に自分に都合のいい状態にしておきたかったはずですから。 ヤマ(管理人) うーん、確かにそのほうが彼には都合がいいのですが、ベニグノ自身がそこまで自覚的に都合のよさを以て望んでいたとも思えませんよ。彼は、そんなふうに自分の心境を内省して対象化するタイプではなかったような気がします。 (TAOさん) ええ、もちろん無自覚でしょう。 (イノセントさん) ここが、ベニグノの無邪気なところというか、哀れなところというか、 ヤマ(管理人) そうですね。で、ベニグノほどではなくても、無自覚さというのは、かなり普遍性のある話ですよね、人間にとって。 (イノセントさん) アリシアの昏睡状態は、ベニグノにとって突然現れた幸運だったわけですよね。 ヤマ(管理人) そうです、そうです。アリシアがそうならなければ、おそらくは叶わなかったであろう接触を、彼は得られたわけですからね。 (イノセントさん) そして、物言わぬ相手を前にして初めて愛(という幻想)を実感した。しかし、本当の悲劇は、もしアリシアが蘇生したら、自分の思い通りにはいかないという現実を直視できないところですよね。 ヤマ(管理人) これは、映画のなかでは、アリシアの蘇生自体がベニグノの視野外にありましたから、映画のなかでは直接そこまで描写されてませんでしたが、ベニグノがそういう人物であろうことは印象付けられてましたね。 (TAOさん) まさに「突然現れた幸運」ですよね。そこに彼は運命の女神の微笑みを受け取ったんだと思います。現実を直視できないところもそのとおり。彼はこんなに尽くしてるんだから、彼女にも伝わっていると思いたいんですよね。 ただ心の隅では知っていて、彼自身、どこか後ろ暗いところがあったのだと思います。だからこそ、アリシアとの結婚についてマルコにムキになって同意を求めようとし、マルコに否定され、病院を追放されたあとでは、ただ子どもが無事に生まれることだけに、神の許しを求めていたのではないかと思うんです。 ヤマ(管理人) あ、それは、ありかも。眠っているアリシアや自分と似た境遇にあるマルコに対して臨むとき以外は、どこかおどおどした感じを見せてましたよね、ベニグノは。そのそれぞれを、アリシアに対しては恍惚、マルコに対しては自負、それ以外のとこでは、本来の社会体験の少なさにもよるコミュニケーション下手と僕は観ていたわけですが、そこに潜在的な後ろめたさを読み取ることも可能でしょうね。 特に、家庭の事情でよく夜勤を代わってもらっていた女性看護師が申し訳なさそうに勤務交代を頼んでくるときに、内心喜々としていることを悟られまいとしている風情がありましたから、そこには、私的に喜々として介護していることが知られると具合が悪いとの判断はあったはずですよね。 彼女がベニグノに心寄せていることに頓着していないのですから、そこのところを慮って、ということはないはずのなかで悟られまいとしていました。だから、アリシアに触れる機会を奪われかねない危険性に対しての具合の悪さを、ベニグノが感じているとは僕も観ていたんですが、そこに更に、職を通じて思うさまアリシアに触れる悦びを私的に満喫していることへの後ろ暗さがあったという読み取りも解釈的にはありだろうと思います。 でも、僕は今や、面会に来、自分に代わって調査もしてくれるマルコとの間で実感した通いによって、アリシアに向けていた自分の愛の不毛に気づくに至ったとの解釈に惹かれ始めているところがあって、それだと、その気づきによる絶望が死を選択するほどのショックをもたらすことになるまでは、逆に潜在的であろうと後ろ暗さなど感じておらず、恍惚に陶酔していたと観る対照のほうが据わりがいいような気がしますね。 (TAOさん) なるほどー、それはそれで説得力ありますね。ただ、ベニグノにそこまで本質を見据える力があったかどうか。私はやっぱりイノセントさんの「親に引き裂かれた絶望に加え、子供の死産の知らせに、生きる望みを失ったのではないでしょうか?」説をとります。 ヤマ(管理人) ええ、元々この作品がスッキリと据わりがよかった方にとっては無用の解釈ですし、むしろ本来、そういうふうに受け取るのが自然ですし、僕も元々はそう受け取ってましたから(笑)。ただそれだと後の展開にスッキリしないものが残っていたので、それを解消するうえでは僕にとっては有効かなってことですね。 (TAOさん) いずれにしても、子どもは、愛の勝利というよりは、自分の愛は正しいのだという証明でしょうね。 ヤマ(管理人) おお、これは納得ですね〜。子供に執着した理由は、こう観るのが最もスッキリしますね。誰もがその正当性を支持してくれないアリシアへの深い思いの正しさを、子供の誕生による神の祝福を受けることで確かめたかったんでしょう。神というか運命というか、そこに委ねて敗れたわけですね。ベニグノの絶望に対して僕が最初に受け取っていた感触についての観方として、大いに納得です。 (TAOさん) はったり好きのアルモドバルはもっとシニカルに悪趣味に人生のままならなさを面白がりながら、愛に不器用な男たちをあわれんでいるところがありますね。 ヤマ(管理人) ええ、これだけは、ずっと共通して描かれているように思いますね。ですから、僕が最初に受け取ったマルコを介してのベニグノの愛の勝利というのは、アルモドバル的あわれみとは少し違和感があって、すっきりしないんですよ。ちょうど『アタメ』と『ワイルド・アット・ハート』を並べた日誌で、リンチに直線的に「一途な愛への讚歌」を謳われてもなぁって不満を綴っているのと近いものがありますね。 (TAOさん) むしろこの映画は、純愛なんてものはいかにありえないかを見せてくれてるようにも思えます。 ヤマ(管理人) っていうか、美しいだけの純愛、綺麗なだけの純愛ってのが、ですね。 純愛ってコワイぞー、覚悟いるぞーって(笑)。そんなの求めた日にゃ、とんでもないハードさを背負うぞって、ね(笑)。 ----------劇中映画の暗示していたもの------------------ (TAOさん) あと、例のサイレント映画、おかしくて哀しくて、いいなあ。 ヤマ(管理人) あ、あれは文句なしにいいですね。浮世絵の春画の豆男ものを想起したりしました(笑)。 (めだかさん) 私がどうにも引っ掛りを持っているのはベニグノの言う「女性の脳の神秘」とサイレント・ムービーの結末です。 ヤマ(管理人) どう引っかかったんですか? (めだかさん) いや、実は、この二つはあまりにもぜーんぜん、分からなかったもので(笑)。「女性の脳は神秘的だから」というのには「はあ?」でしたし、 ヤマ(管理人) はは、「脳」は除いてもいいんですよ。 (めだかさん) 除いてもいいんですか(笑) ヤマ(管理人) からっぽになっちゃ困りますが、そりゃ(笑)。じゃあ「女性は脳も神秘的」ならOK? (めだかさん) それじゃ、しょうがないな〜で微笑んですますしかないですね(笑) ヤマ(管理人) よひよひ(笑)。男は、女性を神秘化したがるものですし、実際そう感じてるとこ大ありなんですよ(笑)。女性からすれば、笑止千万かもしれませんし、勝手に神秘化しないでねってとこもあるでしょうけど、ね。 (めだかさん) サイレント・ムービーは確かに面白かったのですが、ラストでは「?マーク」が頭の中を飛び交ってました(笑)。 ヤマ(管理人) 確か性器から体内に潜り込んでいくのがラストでしたよね。胎内回帰みたいな。ラストじゃなかったっけ? (めだかさん) そうです。これは私が女だからなのか、個人の問題なのか、が引っ掛かって、男性はこの二つはどうご覧になったのだろう?とちょっとお尋ねしてみたくなったのです。 (イノセントさん) サイレントムービー、僕は小さくなった男を精子のイメージで見てました。精子が女性の体内に入りこみ・・・その先に新たな生命が!とまでは想像しませんでしたがね。 ヤマ(管理人) あ、これはもう、そのものずばりですね、きっと。んで、そのシーンが作中サイレント映画のラストシーンだったですよね。 (めだかさん) 「胎内回帰」と聞いて「やっぱりそう見えるの?」とギクリとしましたが、イノセントさんのご見解は思いもよらなかった見方で目から鱗でした。これ、いいですね! ヤマ(管理人) ええ、ど真ん中ストライクって感じですね。 (めだかさん) ちょっと、個人的に「精子」の線でサイレント・ムービーもベニグノの気持ちも突き詰めて行きたい気分です。う〜ん、面白いです。お聞きしてみて良かったです(^^) ヤマ(管理人) ここが我が「間借り人の部屋」の強みなんですよね(自慢)。管理人の及ばないところをみなさんがキチンと補ってくださるから。 (イノセントさん) ベニグノを、ヤマさんが同性として許せず、TAOさんが異性として不快に思われるのなら、僕の感じ方は、中性的なんでしょうか? ヤマ(管理人) あ、僕はベニグノを許せないんじゃなくて、あの一連の出来事についての作り手の捉え方、色づけ方がすっきりしなかったんですよ。ベニグノの犯罪行為は、勿論よしとはしていないのですが、だからと言って、ベニグノを許せるとか許せないってことではないんですよ、僕の感覚的には。 (イノセントさん) 早合点で失礼しました。 ヤマ(管理人) いえいえ、都度都度で確認し合って対話していけることが大事なんで、その確認チャンスを示していただけるほうが遥かにいいです。 ----------この映画にあった元ネタ---------------------- (イノセントさん) ところで、お二人の感想を読みながら、そういえばパンフにこの映画製作のきっかけが書いてあったなと思い出しました。死体置き場の看守が、あまりにも美しい女性の死体を目の前にして、思わず犯してしまった。すると、その死体が蘇生した。生きかえった女は男に感謝したが、アメリカの法律は、男を有罪にした。 ヤマ(管理人) へぇ〜、そうなんですか。「ネクロフィリア的」ではなく、もろにネクロフィリアだったわけですね。死者との交わりと眠っている間の交わり、また、死からの蘇生と眠りからの目覚めでは、かなり意味が違ってくるようにも思いますが、このエピソードでは「生きかえった女は男に感謝した」ってとこがミソですよね。 そーか、アルモドバルは、そのエピソードを製作契機としつつ、アリシアがどう受け取っていたかを色づけていませんでしたね。さすが〜、賢明な作り手ですねぇ。 (TAOさん) 『トーク…』には元ネタがあったのですねー。あまりに奇想天外なので、かえって真実味があるなあ。 ヤマ(管理人) そうですね〜。 (TAOさん) こんな話をおもいついたアルモドバルは天才だと思いましたが、さすがに0からの発想ではなかったようですね。でも、事実よりさらに面白くしてるのはさすがです。 ヤマ(管理人) ほんと、ほんと。 (イノセントさん) やはりこの映画の主要なテーマは性犯罪と奇跡の蘇生を、どうとらえるか? ということになるのでしょうか。そこで、改めて考えてみると、ベニグノは奇跡の蘇生を知らずに自殺。アリシアは、犯されたことを知らぬまま、ああ、でも子供がいるからバレルか。いずれにしても、この映画では、アメリカの法律が有罪にしてしまった問題を(TAOさんは、法律よりも手厳しかったですが)、ベニグノを自殺させることによって、観客にふったのではないでしょうか? ヤマ(管理人) そのとおりだと僕も思います。おかげで僕もあれこれ考えましたよ(笑)。映画でも法の側の答えは、明確に示していましたね。 (イノセントさん) もし、ベニグノが自殺していなかったら、映画の中で、ある程度の方向性を示唆しなければならなくなるでしょ。 ヤマ(管理人) そうですね。でも、僕は日誌に色づけと綴ったように、映画でも示唆はしていたように思うんですよ。ただアリシアの答えを明示していないというとこがポイントなんだろうと思いますね。作り手が、そこまで断言していないところが意味深長なんですよ。 (イノセントさん) 確かに、良く考えると、示唆的な部分はありますね。マルコとアリシアの出会い、そしてベニグノのための空席は、やはり、TAOさんの言う「やり直し」というのがふさわしいと改めて思いました。 ヤマ(管理人) そうですよね。やり直し! 勝利ではなく「やり直し」と解するのが、最も据わりのいい解釈だろうと思いますね。 (TAOさん) ええ、そこですよねー。 深層心理学では、外界のさまざまな要素を因果関係で結びつけずに、ただ全体の配置として見ることをコンスタレーションといいますが、全体としてバランスがとれたこの並べ方は、まさにコンスタレーションだなと思いました。 ヤマ(管理人) この加減が微妙にさまざまな読み取りを誘ってくれて、おかげで楽しく悩まされるんですけど(笑)、間違いなく作品の豊かさを増していますよね。 (TAOさん) ところでヤマさん、この場合、ネクロフィリアとは言えないと思いますねえ(笑)。体温と血色がないアリシアなんて、魅力が失せちゃうでしょ。 ヤマ(管理人) 確かに(笑)。だから、日誌でも「的」とはしたんですけど、「体温と血色がない」ってのは、ホントはべらぼうに大きな違いですよね。まぁ、アルモドバルの元ネタ自体が死姦だったようですから、どっか繋がるイメージってのは、やはりあったんでしょうけど(笑)。 (TAOさん) ここはやはり、血の通ったダッチワイフと呼ぶべきでしょう(笑)。 ヤマ(管理人) いや、そのとおり(笑)。そういう性倒錯の類型に当たる名称があれば、それを使うほうが妥当なんですけど、知らなくて(苦笑)。生身の意識を失っている女体を好む性癖って何と言うのかな? (TAOさん) あまり聞きませんねえ。スリーピングビューティ・コンプレックスとでも言うんでしょうか。たしかお湯を入れて使うダッチワイフがあるはずです。やっぱり体温はだいじですからねえ。 ヤマ(管理人) そういうの、あるようですね。でも、それってお湯沸かしているときってどうなんでしょうね(笑)? なんかメチャクチャ間が悪そうな気がするんですけど、「沸く沸く」してるんでしょうかね(笑)。 (イノセントさん) それはともかく、ここに描かれた罪とか善悪の問題に、普遍の答えなどあるはずがありませんし、各人がそれぞれに納得できる答を見つけようともがくしかないと思うんです。 ヤマ(管理人) そうなんです。もがきました(苦笑)。 (イノセントさん) こんな奇跡に遭遇する人は、めったにいないでしょうが、それでも、人は皆答えのない問題を抱えながら悩ましげな人生を歩むものだと思います。 ヤマ(管理人) ほんと、そうですよね〜。 (イノセントさん) そして、そんな悩ましげで愚かな人生でも、それを芸術というものに昇華することによって、慰めになるような気がします。 ヤマ(管理人) それは同感ですね。すっきりしないのは何故なんだろうって考えさせてくれる楽しみは、日常を離れた、まさに人生における慰めの一つとなる時間であることに違いありませんもの。 ----------舞踊や歌のステージの引用について------------ (イノセントさん) そういう意味でも、この映画の最初と最後の劇中劇やカエターノ・ベロッソの歌は、監督の人間賛歌の表現手段だと感じました。 ヤマ(管理人) あの歌はよかったですねー。舞踊のほうは、僕は後で出てきたのは、わりと惹かれましたが、最初のは、代表作らしいですけど、あれだけの切り取りでは、今ひとつピンと来なかったのが正直なところです。 でも、それらの個々のアーティストのパフォーマンスがどうだとかいうことより、アルモドバルが、ああいうものを借景するようになっていることが、僕の求めるところと違っているということなんですね。ファンというものは、身勝手なもんですから(苦笑)。 監督の人間賛歌の表現手段だというのは、おっしゃるとおりだと思いますよ。ただある種権威づけられたものを借りてくるってとこが、らしくないっていうか、そうでない形で見せてくれるほうを願っているというか(笑)。 (TAOさん) うふふ、おっしゃるところはわかる気がします。アングラなアルモドバルが、ハイブロウなアートの権威を借りるなんてちょっとね。 ヤマ(管理人) ま、ファンの我が儘みたいなモンですよ(笑)。 (TAOさん) でも、私は逆に、ピナ・バウシュのような冷血系のエッセンスを取り入れることで、いつもの暑苦しさがうまく緩和されたのが気に入りました(笑)。 ヤマ(管理人) ふだん暑苦しいと感じておいでだとそういう効用はありそうですね。僕には、緩和してほしくないものが澄まし込んだように作用したのですが(苦笑)。 (TAOさん) もうひとつ、夢遊病者を思わせるギクシャクとしたダンスは、もがき苦しむ生者を思わせ、 ヤマ(管理人) なるほど、なるほど。ご賢察ですね。『カフェ・ミュラー』自体の表現意図がなんであれ、あの映画で指し示しているイメージとしては、まさにこれなんでしょうね。 僕は、あ、なんかヤだなー、こういうの!ってのが先行しちゃって、受け取るイメージを膨らませるまで至らなかったのでしょう(苦笑)。損してますね、身勝手なファンの我が儘のせいで(笑)。 (TAOさん) 最後の色彩の溢れる官能的なダンスは、豊かな眠り(植物状態)を思わせるという高度な対位法が感じられたとこかな。 ヤマ(管理人) 緑の植物がステージの背景に並んでいたこともあって、植物のイメージや生命感が得られやすかったですよね。人間バケツリレーの緩やかな動きのリズムや僅かに上下する波形の動きは、やはり生命感に通じるものだろうと思います。おまけにウゥとかいう吐息を規則的に漏らしてくれるわけですから、死体のバケツリレーではないことは明白(笑)。 (TAOさん) きれいはきたない、きたないはきれい・・・と、シェークスピアではありませんが、ここでも、許されざる卑劣な行為→奇蹟のディープさをなぞってると思いましたよ。 (めだかさん) 私も冒頭のダンスを観た時には違和感があったのですが、最後のダンスを観て、この二つの部分的に切り取られた舞台が途中のサイレント・ムービーと同じく、作品のメタファーと見る見方もあるかな?と思いました。 ヤマ(管理人) それは、もちろんそうなんでしょうね。それゆえ、映画に持ち込んでいるのでしょうから。 (めだかさん) 死体姦(ゲ〜)と蘇生という事実があるように、アルモドバル監督は権威付けといったことは意識になく、作中にインスパイアを受けたものを全て配置して見せてくれただけなのではないでしょうか。脚本の妙と申しましょうか。 ヤマ(管理人) 「死姦や蘇生という事実」と「権威付け」とは直接的に繋がらないとは思いますが、「インスパイアを受けたものを全て配置して見せてくれただけ」というのは、アルモドバル自身においては、多分そうなんでしょうね。 ただ結果的に僕の僻み目には、あんなふうに映ったっていうことですよ(苦笑)。 (めだかさん) 「死姦と蘇生」→「植物状態と回復」:「目を閉じた状態で同じ振りを踊る2人の女性ダンサーとその片方を守る男性ダンサー」→「リディアとアリシアとペニグノ」、「密着したペア数組のダンスと一組だけの距離を持った男女ペアのダンス」→「マルコとアリシア」、と見ると、私にはかなり直接的に繋がって見えたということです。 ヤマ(管理人) あ、僕が直接的に繋がらないと思ったのは「死姦と蘇生という事実」と「権威付け」のことでした。 「死姦と蘇生→植物状態と回復」というのが、あの最初と最後の舞踊の持つイメージに重なるばかりか、ダンサーの配置が登場人物たちに繋がって見えたというお話には感心しつつ、なるほどねーと思いました。登場人物たちとそんなふうに具体的に繋がれば、よりインパクトがありますよね。 (めだかさん) こう書いちゃうと身も蓋も無いですけれど^^;。 ヤマ(管理人) そんなことありませんよ。 (めだかさん) そういえばどこで聞いたのだったか、最後の『炎のマズルカ』は、舞台セットは『緑の大地』からで振り付けも舞台とは違っているそうで。この映画には実際の舞台を見てみたいと思わされました(^^) ヤマ(管理人) そうなんですか。舞台セットは生命感という点でも重要でしたね。この映画にふさわしいアレンジだったんですねぇ(感心)。 ヤマ(管理人) 「もがき苦しむ生者」で始まり、「豊かな眠り」で締め括る形というのは、でも、目覚めて苦しむよりも、豊かに眠っていたほうがずっといいってな意味合いではありませんよね、たぶん。いくらディープだって(笑)。 (イノセントさん) でも、あの劇中劇や歌がなかったら、もしかすると、人生の空しさだけを感じ取ることになったかもしれないと思うのですが・・・。 ヤマ(管理人) ええ、「監督の人間賛歌の表現手段」に相当するものは、僕もあったほうが絶対にいいと思います。ただ、それがあの借景であることがベストだとは僕には思えなかったということなんですよ。 (めだかさん) 事件とは違い、芸術はできるだけ生に近いものを見せて感性を刺激したいでしょうから、私はあの借景は必要なものと思いました。 ヤマ(管理人) もちろん、舞台にしろ、歌にしろ、それ自体が達成度の高いものなんですから、借用するという手段自体に何ら違和感がなければ、むしろチョイスのセンスのよさに感心するでしょうし、映画にとって、それが必要性を感じさせるに足るだけの効果をもたらしていたと感じるでしょうね。そのことについては、異論も疑問も抱いておりません。むしろ、何の引っかかりも覚えずに享受できるほうがお得だし、イメージの広がりが得られて、羨ましいくらいです。僕は、ちょっと損した気分ですもの(笑)。 (イノセントさん) 劇がそんなに著名なものだとは知りませんでしたが、僕は単純に、あの切り取られた劇に鳥肌が立つほど感じるものがあったのです。 ヤマ(管理人) これが一番お得な鑑賞体験だろうって思いますね。 (イノセントさん) 劇中劇は「ドールス」や「覇王別姫」など時々目にしますが、前者は、人形浄瑠璃のシーンは圧巻でしたが、その後の展開が僕には魅力を感じなかったし、後者の京劇のシーンは全然伝わるものがありませんでした。 ヤマ(管理人) 前者については、日誌にも綴っているように僕は好もしく思っておりません(笑)。嫌な感じでの借り物的ニュアンスを感じておりました(苦笑)。後者は、借り物も何も京劇役者たちのドラマですから、借り物的印象はあり得ないことですが、少なくとも嫌な感じを得た覚えはありませんでしたね。 (イノセントさん) アルモドバルは、これらの劇を使って、それに匹敵するだけの映像美や展開の奥深さを表現し得たから、この劇も生かされたのではないかと思います。 ヤマ(管理人) 本来それが妥当な観方だろうと思いますよ。僕のはファンの我侭というか、身勝手な僻み目ですから(苦笑)。 ----------今度はマルコについて------------------------ (イノセントさん) なんだか、話が盛り上がりすぎて、そんなには深読みしてない僕には、皆さんの意見に追いつけなくなりそうです。 ヤマ(管理人) 僕にしても、最初から深く読み込んでいるわけではなくて、イノセントさん始め、皆さんから触発されて、あれこれ考えているだけですよ。おそらくTAOさんにしても、そういうことなんじゃないかしら? (イノセントさん) それで言えば僕は、ベニグノの一途さに心を動かされたマルコ、そして、皮肉にも強姦で目覚めこれから生きることの意味を実感していくであろうアリシアがいて、少なくともベニグノは、二人の人生を大きく変える存在であったことは事実で、愛の勝利とか否とかではなく、人の存在価値とは何か? 生きることの意味は? そんな風に受け取りたいと思うようになりました。 ヤマ(管理人) 同感ですね。 (イノセントさん) でも、映画を観ている時は、とてもそこまでの思いには至りませんでしたが(笑)。 ヤマ(管理人) それは僕も勿論同じです。皆さんとの対話のなかで導いていただいたことだという気がしています。 (TAOさん) ところで、マルコに関しては言いたいことがあって、 ヤマ(管理人) そうですね、ベニグノばかりに焦点当ててましたから、ここらで次はマルコといきますか(笑)。 (イノセントさん) もうそろそろ、話も終焉かと思いきや、今度はマルコですか(笑) ヤマ(管理人) はは、そーなんですよ(喜々)。盛り上げていただき、大感謝ですよ(笑)。 (TAOさん) ああいうふうにいつもおだやかで控えめな男性は、一見やさしそうに見えるのだけど、捨て身になれないところがまずいんだと思うんですよ。 ヤマ(管理人) うひゃ〜、TAOパンチ炸裂ですね(笑)。闇雲に捨て身で来られても困るでしょうが、ここぞというときさえ捨て身になれないというのも情けないものでしょうね、確かに。 でも、耳の痛い男はたくさんいるでしょうな(苦笑)。いざというときの思い切りのよさとか潔さって、女性には敵わないような気がします(脱帽)。 (TAOさん) つきあうにも別れるにも女性まかせで、来るもの拒まずみたいな。そこが女性には物足りなく感じられるんじゃないでしょうか。 (めだかさん) 前に書いた最後の座席配置の件は、TAOさんのこのマルコの問題への解答でもあるかも。 縦列では、向き合うのは後ろを振り向かなくてはならない前の席の人物に選択権があります。それまでのマルコは向かい合う選択を人に任せて、後ろや横で相手の顔を見ずに語る人で、最後に自ら選択することができるようになったようにも見えます。 ヤマ(管理人) そーか、選択の役割を負ったポジションに位置するようになったことを視覚的に示してもいたというわけですか。なるほど。 ふむ、「相手の顔を見ずに語る」ってのもキーワードですかね。リディアに、話してるのは貴男ばかりって、グサッとやられてましたしね(笑)。 (TAOさん) そうそう、そこ重要だと思います。 ヤマ(管理人) しかも、あれ言われたときのマルコの鳩豆顔からして、自覚ゼロのことに対する指摘だったような気配でしたよね。ここが、なかなかツライとこで、ままならないんですよね。このことにナーバスになりすぎると言葉失っちゃうし(苦笑)。 (TAOさん) 男も女もそれ、なかなかできてないですよね。女の方がしゃべる絶対量が大きいからとくに気をつけないと。 一人ならず二人までもどたんばで去っていったのは、裏切る女性のほうが一方的に悪いんじゃなく、マルコにも致命的な欠陥があるような気がします。 ヤマ(管理人) なるほどね、言われてみれば、そのとおりですね。 (めだかさん) マルコってペニグノと同じで、尽くすことで愛情を通じさせようとする人ですよね。 ヤマ(管理人) ほほぅ、そういう視点もありますか。捧げ入れ込むということでは、むしろ対照的に配置されていると思っていました。 (TAOさん) ほんとですねー。正反対どころか、じつは同じ尽くし型だったんだ! 尽くす方法がちがうだけだったんですね。 ヤマ(管理人) ふーむ、そうなのか.... (めだかさん) 対置ということではその通りだと思うのです。方向の違いで、ベニグノは家庭環境から理療の方向へ極端に行ってしまったし、マルコの関心はメンタルの方向に向いていたのでは。 ヤマ(管理人) メンタルの方向で、やはりマルコは捧げ入れ込んでいたのでしょうか? (めだかさん) 私は入れ込んでいたと思います。前の恋人は薬物依存症で、彼女の回復のために旅行記者になったようなものですよね? ヤマ(管理人) なるほど。入れ込んでますね(笑)。 (めだかさん) リディアの場合は、マルコは結局、旅程の途中でアルゼンチンの人(でしたよね?)なのに、彼女の為にスペインに逗留し続けることになってますし ヤマ(管理人) そう言えば、そうでしたね。なるほど、なるほど。 (めだかさん) マルコ、仕事はどうした。いい身分だな〜と思ったものでした(笑)。 ヤマ(管理人) あ、これは僕もなんか観てるときに思ったような気がしますよ(笑)。 (めだかさん) いったいいつからリディアのマネージャーになったんだ(汗)と一瞬、勘違いしてました(笑)。 ヤマ(管理人) マルコの人物像を考えるうえでは、この捧げ入れ込むってとこをどう受け取るかというのが、重要なポイントになってくるだろうと思うんですよ。ベニグノには及ばないながらも同じく捧げ入れ込むタイプという位置づけなのか、ベニグノのようには捧げ入れ込むことの出来ないタイプ、換言すれば、TAOさんがご指摘になるような「つきあうにも別れるにも女性まかせで、来るもの拒まずみたいな」煮えきらなさがつきまとう直線的にはなれないタイプっていう対照なのか。 (めだかさん) かなり観念的で上手く説明できないですが、「女性任せ」というのが必ずしも「入れ込むことができない」ということではないと思います。 ヤマ(管理人) あ、それはそうですね。気持ちは入れ込んでいて、具体的な選択は相手任せというのは、別に珍しいことではありませんね。 (めだかさん) まず自分の欲求ありきで、それに対する相手の感情に考えが及ばないから、リアクションに対する為す術を知らず相手任せ、ということもあるでしょう。 ヤマ(管理人) 大いにありますね。 (めだかさん) 相手を尊重した上での「来る者拒まず、去る者追わず」とは、行動は同じでも始点が違いますよね(^^)。 ヤマ(管理人) そうですね。相手の尊重というところで、出発点がまるで違う同じ行動というか態度というのは、ままあることです。 (めだかさん) でも、映画のラストで欠点が直りました・・・となったらそれこそ聖マルコですけれど、それはそれで完璧すぎて女性は避けるかもしれませんよね(笑)。 ヤマ(管理人) あ〜(笑)、「相手の尊重」ということではないんですけど、次の更新でアップする僕の日誌の追記とかぶってるとこありますよ、これ!(笑) (めだかさん) 恋愛のコミュニケーションでしたら、あの「少し振り向いて目が合ったら微笑み合う」程度の前向きな変化を具間見せてくれるぐらいが希望が見えて良いですね。 ヤマ(管理人) この線です、この線です、追記は(笑)。 (めだかさん) それにしても、マルコは保護者気質というか、一人目の時も付き合いだした時には相手は問題を抱えてたみたいだし、リディアに惹かれたのだってテレビ放映での苦境を見たからに見えました(笑)。 ヤマ(管理人) それはそうでしたね。蛇も退治してあげてましたし、ね。 (TAOさん) ここに来るたびに新たな発見があって、とても刺激的な毎日を送らせてもらっています。 ヤマ(管理人) 僕もそうなんです、みなさんのおかげですよ(感謝)。 (TAOさん) 弱ってる人を見ると癒しに行く人なんですね。母性本能の人ですね、マルコ。そこもベニグノっぽいなあ。もっとシビアに言うと、傷ついてる人を癒すことにしか存在意義を見いだせない共依存の典型ですよね。 ヤマ(管理人) なるほどねー、そう観るわけですか。 「共依存」はTAO視線のなかでも、重要な鍵の一つですよね。 (TAOさん) そりゃもう自分に素質があるもんですから、自省も込めて即座にチェックが入るわけです(笑)。その「共依存」という意味では、再生したアリシアは、いままでの守備範囲とはちがうので、マルコにとってあきらかにちがう世界が拓けつつあるんですね。 ヤマ(管理人) 共依存とは違うパターンへの踏みだし、ですか。ふむ、なるほど。 でも、案外マルコは、目覚めは取り戻してもリハビリ中のアリシアなんだから、癒されなければならない存在だと思ってたかもしれませんよ(笑)。来た! 俺の出番だ!って(笑)。 (めだかさん) 目覚めたアリシアは肉体的には困難を抱いているかもしれませんが、精神的には再び踊るという目標を持って高揚しているでしょう。メンタルな面では問題がないですから、それまでのマルコなら範囲外ですよね(笑)。 ヤマ(管理人) アリシアにそういう高揚というのはあるでしょうが、マルコの側からは、昏睡中の姦淫と死産という体験が、アリシアにおいて既に乗り越えられているものなのか、肉体同様にリハビリや癒しを必要としているものかは即断できるものではありませんから、むしろ、TAOさんのいう「弱ってる人を見ると癒しに行く母性本能の人」としては、まさに我が出番というか、じっとはしてられないのかもしれませんよ(笑)。 (TAOさん) いえいえ、なにしろアリシアは生まれたてのあかんぼうのようにリフレッシュしてますからね。 あの演出からすると、心の傷も受けてないと解釈すべきですし、 ヤマ(管理人) なるほど。元ネタのように感謝まではともかく、少なくとも傷にはなっていないと、ね。それが女性らしい強靱さだろうとは思いますね。 (TAOさん) それに、相手の心が癒しを求めているかどうかは、共依存傾向の強い人には直感的にわかるはず(笑)。 ヤマ(管理人) 説得力あるなぁ、体験的断言の風情まであって(笑)。 (TAOさん) そして、あの無垢な表情は、従来のマルコには、眩しすぎて敬遠すべき類のものですよ。 ヤマ(管理人) もはや間違いなく、マルコは嘗てのマルコではなくなっていると。うん、これはそう考えるほうが妥当だと僕も思いますね。ベニグノの愛の勝利であるか否かは置いて、ベニグノの魂と死がマルコに遺したものは、まさにマルコの変化だったろうって思いますから、相手が痛んだ心じゃないと惹かれないってことからは脱却してるでしょうね。 (めだかさん) マルコの保護者気質というのは、ベニグノの献身的な看護と同じで、とても優しく深い愛情だと思うのですけれど、 ヤマ(管理人) なるほどね。僕は、相手に向ける愛情というよりも、彼のパーソナリティみたいな受け止め方をしてましたが、普通なら、そこまで構わないはずのところを構ってあげるのは愛情なのかもしれません。 (めだかさん) 相手の意思を見ようとせず自分から踏み込まないという点は、ベニグノと同じだったのかも、なんてね。 ヤマ(管理人) あ、やっぱりマルコには厳しい視線なんですね(笑)。 (TAOさん) ええ、めだかさん、私が言いたかったのはそこです。傷ついている女にとってマルコのような包み込んでくれる存在は、ありがたいのでつい頼ってしまうけど、自分の傷が癒えてくると、傷をなめあうだけの依存関係がいやになってくるんだと思うのです。 そこが女のもつ健全さというか、したたかさというか。こわいですよねー(苦笑)。 ヤマ(管理人) あ、『春の日は過ぎゆく』みたいな話ですね(笑)。僕にはウンスがそのように見えたものでした。 (TAOさん) おや、そうなんですかー。私は「八月のクリスマス」を見て、この監督の微妙な自己愛の見せ方に(ウォン・カーウァイほどおおっぴらでないところがさらにイヤで・笑)大いに不信をもってしまい、 ヤマ(管理人) なるほど、ね。確かにそういうとこありますね。僕、ウォン・カーワァイは苦手なんですけど、ホ・ジノはOK。どーしてなんだろー(笑)。 (TAOさん) 「春・・・」は迷わずパスしてるんですよ。やっぱり正解だった気が・・(笑)。 ヤマ(管理人) そういうことでの不信なら、きっと正解だと思いますよ。 まぁね〜、マルコは、ある種のというか、本質的な面での男の弱さを体現しているとは思うんですよね。繊細なんですよ〜(と言って庇う(笑))。 (TAOさん) いやあほんと、男はつらいよ、ですね。お察しします。 ヤマ(管理人) どもども(笑)。 (TAOさん) やさしいだけのめんどりになってはいけないし、マッチョや捨て身もダメだし。でもね、だいじなのは姿勢ですから。 ヤマ(管理人) ま、心掛けってとこなら、腰据えていたいとは思ってるもんですよ。 (TAOさん) というわけで、あのラストは、こんどこそがんばれ、マルコ! ベニグノもあの世で見守ってるぞ、ということなのではないかと思うわけです。 ヤマ(管理人) ここんとこは、別段ディープでもないハッピーエンドなんですね。 (TAOさん) やさしさを隠れ蓑にするのはやめて、腰がひけてないところさえ見せてくれれば、女はだまってついていくものなんです。まあ姿勢だけでも相当な覚悟がいるとは思うんですが、それを求めるところに、きっと女のロマンがあるのでしょう(苦笑)。 ヤマ(管理人) 男は女に、女は男に、かくあってほしいと望むとこ、あれこれ、あるもんですよね。ま、それが満たされてないからって直ちにアウト!ってわけでもないとこが、救いっちゃ、救いですね、お互い(笑)。 ----------『春の日は過ぎゆく』への寄り道-------------- (イノセントさん) ところで、『春の日は過ぎゆく』と出てましたが、話変わって、ヤマさんの感想を読み返して、「そんなウンスが、最後の場面では言葉を発することができずに、サンウのほうに顔を向けたまま心残りを窺わせつつ、少しづつ後退りする形で離れていくのだから、変わったものだ。」とありましたが、 ヤマ(管理人) 読み返してくださったとは、恐れ入ります(感謝)。 (イノセントさん) これっていつも自分の思いどおりに生きてきたウンスが、あるいは過去に喧嘩別れしたとしても言いたいことはすべて言い尽くさないと気が済まないような性格のウンスが、サンウの無言の抵抗に、不意打ちを食らったのではないでしょうか? ヤマ(管理人) 単なる鳩豆だと? こりゃまた手厳しい(苦笑)。 (イノセントさん) つまり、ウンスは本当に変わったのではなく、初めての経験に絶句しただけ。あの手の人間って、そう簡単に性格変わるもんではないですよ。 ヤマ(管理人) こりゃ、イノセントさんは相当ウンスにご立腹だったようで(笑)。 確かに人はそう簡単に変わるものではありませんけれど、逆に人が変わるときっていうのもまた、あのような恋愛体験によってっていうのが、数少ないチャンスだろうとは思うのですよ。 (イノセントさん) 立腹だったわけではありませんが、こんな嫌な女(男にもいますが)結構多いよなーと思って観てました。 ヤマ(管理人) 結構多いよなーってのは、僕も思いましたね。嫌なっていうより、気の毒なって感じでしたけど(笑)。僕が日誌で「意欲的で自己主張に富み、バイタリティのある人は、過剰気味の自身の活力のせいで、心身ともに蓄積疲労に見舞われがち」以下に書いたことは、その表れでした。 (イノセントさん) 確かに、恋愛は人が変わる大きな要因というのは僕も同感です。ただ、相手の気持ちを考えられない自己中人間が、相手の気持ちを察することができるようになるまでには、ひとつの恋愛を終えて、突然というのはありえないと思うのです。 ヤマ(管理人) なるほどね。ま、多少のインターバルはありましたけど。 (イノセントさん) ある程度の年月が必要だろうと思うし、 ヤマ(管理人) 年月というには及びませんでしたね、確かに。 (イノセントさん) 少なくとも、僕と関わった自己中人間で、「あいつ変わったなー」というのは、一人もいない。 ヤマ(管理人) 確かにねぇ(苦笑)。でも、随分緩和されたように感じる奴はいますよ。ま、僕も自己中なんで、確かに性根というのは簡単には変わらないことが身に沁みてますけど(苦笑)。 (イノセントさん) おとなしかったやつが陽気に変わったりとか、その逆なんかはありますがね。 ヤマ(管理人) これとか、自信とかっていうのは、けっこうよく見受けられますね。 (イノセントさん) ベニグノにしても、仮に自殺しなかったとして、自分の行為がストーカーだったと本当に納得して、自分を変えるまでには、少なくとも5年10年の歳月が必要じゃないかと思うのですが・・・ ヤマ(管理人) 収監をも経て得たマルコとの出会い触れ合いにても叶いませんか。ま、無理とも言えますよね、確かに。 (イノセントさん) そして、ウンスの最後の寂しげな表情は、普段は見向きもしない所有物を、いざ手放すとなるとなんだか惜しいような気になる心理と同じ。 ヤマ(管理人) もちろん、そんなふうに解釈することもできますよね。これはもう各自の人間観、恋愛観みたいなものとの関係であって、どう受け取るのが正しいとかいう話とは別物ですよ。 (イノセントさん) でも監督は、むしろ、サンウの初恋の心の高鳴りと失恋の痛み、そしてひとつの恋を追えてそれを思い出として冷静に受け止めるまでの心の軌跡をより鮮やかに表現するために相手役の女性の性格が決定付けられたのではないかと思うので、 ヤマ(管理人) こういうふうに見えちゃうと、TAOさんじゃありませんが、サンウに投影した「監督の微妙な自己愛の見せ方に大いに不信」っていうことに繋がってきますよね(笑)。それはそれでありだろうとは思うんですよ、僕も。 (イノセントさん) 監督の自己愛っていうのが、どういうニュアンスでおっしゃっているのか良く分からないんですが、監督の青春の経験をサンウに投影しているってことですか? ヤマ(管理人) そうですよ。 (イノセントさん) そして、それがきれい過ぎるから不信ってことですか? ヤマ(管理人) うーん、僕は不信って感じじゃないんで、うまく言えないですが、きれい過ぎかということより、自己陶酔的ってことなんじゃないですかね。ウォン・カーウァイ出てきてたし(笑)。僕はそういったニュアンスで受けてました。 (TAOさん) なにぶん私は「八月のクリスマス」を見た限りで言っているので、「春の日…」について語るつもりは毛頭ないのですが、言葉の意味としては、ヤマさんの解釈の通りです。カーウァイのようにわかりやすいナルシズムではないけれど、上品な見せかけのわりに自己正当化が強引で、他者への理解というものがなさそうに思えたのです。すみません、ひどいことを言ってますね。 ヤマ(管理人) いえいえ、お気になさらずに。僕なりに合点の行くとこはありますから(笑)。 (TAOさん) こんなにひっかかるのは、たぶん自分のなかにある要素だからだろうとイヤな予感がするのですが(笑) 。 ヤマ(管理人) あは〜、得てしてそういうものでしょう。でも、僕もそういう傾向強いんですけど、なんで引っ掛からなかったんだろう?(笑) あ、上品ってとこに僕には接点がないからかなぁ(苦笑)。 (イノセントさん) ウンスがどうだこうだと議論するのは、監督の表現意図を効果的にするために決定付けられた性格ではないかと思うので、ナンセンスかとも思うのですがね。 ヤマ(管理人) でも、どう見えたのかって伺うのは、むしろ非常に興味深いところだって気がします。ウンスを語ると言うよりも、自分の恋愛観や女性観を語ることになるという側面があって、けっこうハラハラものですが、だからこそ興味深い話になるんだと思いますね。 これ、『トーク・トゥ・ハー』にも言えることですけどね。 (イノセントさん) 確かに。僕なんかずっとハラハラですよ! ヤマ(管理人) 管理人は、逃れようがない分、オロオロも加わるんですけどね(笑)。 ----マルコを通じて浮かび上がってきたジェンダー問題---- (イノセントさん) 映画を観ている時はベニグノに心を奪われて、どちらかというとマルコは引きたて役のように見ていましたが、 ヤマ(管理人) 僕も対置されているように受け取ってましたね。 (イノセントさん) TAOさんやめだかさんのおっしゃる「二人は似たもの同士」ということに、初めて気付きました。 マルコの生き方って僕にはカッコ良く映ったし、 ヤマ(管理人) ベニグノを見守る視線も、めだかさん・TAOさんの女性陣のおっしゃる「マルコの保護者気質」ということなんですかね〜。 (めだかさん) これは「類は友を呼ぶ」でしょう(笑)。劇や歌に入り込んで涙を流したり、マルコって共感し易いんですねえ。よく言えば繊細で多感ですが、醒めた目で見ると、自分の世界に浸り易い奴ということになります(酷〜)。 (イノセントさん) う〜ん、自分の世界に浸って周囲が見えないのは困りものですが、逆に、浸れる自分の世界を持たない人って言うのも、それは寂しいような気もするのですが・・・・あれっ? 今度は自己弁護(笑) ヤマ(管理人) いやいや、持っているほうがいいに決まってますよ。現実との見境を失くしてしまわなければ、ね(笑)。 (めだかさん) 言い方はキツイけど批判してるわけじないんですよ〜(汗)。だって誰でもそういう部分は持ってるし、それが必要なことも多いし、だいたい映画鑑賞だってそれがまた楽しむ方法のひとつじゃないですか!(笑) ヤマ(管理人) そうです、そうです(笑)。観るだけに収まらず、こうしてどっぷりと嵌まり込んで対話を続けるのって、見様によっては物好き以外の何者でもありませんよね(苦笑)。 (めだかさん) だから、こうして自省する振りをしております(汗笑)。 ヤマ(管理人) ところで、めだかさんのおっしゃる、この共感しやすさとか、よく言えば繊細で多感だけど醒めた目で見ると自分の世界に浸りやすいっていうのは、傾向的に言えば、従来女性的とされてきたような気質だったりしません?(笑) (めだかさん) そうなんですよね〜(笑)。あぁ、頬被りをしてやり過ごそうとしていた所に鋭く切り込んでいらっしゃいましたね(笑)。 ヤマ(管理人) 少しは返す刀で…(笑)っていうのは冗談ですが、この作品は、従来的な感覚でのジェンダーとは相反する形のカップルとしてのリディアとマルコを提示しながらも、そのそれぞれの具体の関係性においては従来的なジェンダーを逸脱した部分と同時に、それを踏襲している部分も同居していることが描かれていたようにも思えてきました。何を以て男性的・女性的と言うかとのジェンダーの視点というのは、やはりアルモドバルにおいて、ないわけないものですよね(笑)。 (めだかさん) それが一番の問題ですね(笑)。この作品では外見や役割的なものやパーソナリティではない。としたら、アリシアの生命力の他はそれをどこにご覧になるのでしょう? ヤマ(管理人) ほっかむりの話もそうですが、登場人物各人の備えているパーソナリティのそこかしこに、受け手がやれ女性的だとか男性的だとか言って感じるものそのものがジェンダーってことじゃありませんか? (めだかさん) 表出としてはそういう形ですが、思い付くことができるだけでも自分に萌芽があるかもしれませんでしょう?(笑) ヤマ(管理人) そうなんですよ、まさにそこが問われる形になるのが、ジェンダー問題を含んでいるというふうに僕が受け取っているところですよ。 (めだかさん) とすると、女性が「男性的」とか男性が「女性的」とか言うのはあくまで「的」であって性差とは言えないものかもしれないので。 ヤマ(管理人) 性差というよりは、性差による役割イメージとして色づけられたものという感じでしょうかね、僕の言いたかったジェンダーというのは。そういう意味では、「的」とつくもののほうに、より顕著な色づけを感じたりするんですよ。 (めだかさん) なるほど。確かに「的」の方が固定観念ですね。 (TAOさん) あ、やっぱりマルコって、従来的な意味で女性的なのかも。 ヤマ(管理人) でしょ。 (TAOさん) ファザコンのリディアが、父親の希望どおりに闘牛士となったものの、女性としての自分を確立できていなかったのと対照的ですね。 ヤマ(管理人) そう、対照されていたと思いますね。女性的な男性のマルコと男性的な女性のリディア、しかして双方ともに基本的には従来的な男性性と女性性をともに引きずっているとこがあって、アルモドバル作品らしからぬ普通っぽいキャラ・イメージを与えるものの、やっぱりしっかとジェンダーの問題は内包されているって案配ですよ。 (TAOさん) 男だけじゃなく、闘牛士の女も不器用でしたね。 ヤマ(管理人) 少なからず男性的でしたからね(笑)。不器用ってのは、男の得手ですね、どうも。 (イノセントさん) 劇を見ながら涙するところや、苦悩する人を見捨てられない性格など、ヤマさんの言ったように繊細で、僕に似てるかもなんて思ってたんですが、マルコの弱点を指摘されればされるほど、ますますマルコって俺じゃん! なんて思えてきました(汗)。 ヤマ(管理人) あ、イノセントさんも耳に痛いクチでしたか(笑)。「ある種のというか、本質的な面での男の弱さを体現している」と僕も書いたとこですが、きっとマルコの弱点が耳に痛い男、少なからずいますよね。 (イノセントさん) でも、そんな性格も20代までで、今は自分も「共依存」からは抜け出せたかなと思っているんですが、 ヤマ(管理人) それはなにより。結構なコトじゃないですか(笑)。僕は「共依存」のとこまではマルコに近くはなかったもので、それから抜け出す必要はなかったのですが、そーですか、イノセントさんは、そこまでマルコが若かりし頃の御自分に近かったんですか〜。 (イノセントさん) マルコの性格を見ぬけなかったってことは・・・・自分の性格が見ぬけてないってことか(大汗)。 ヤマ(管理人) いや「共依存」って、共依存の自覚がないからこそ共依存なんであって、そこが見抜けていたら共依存型ではなくなりますもの(笑)。 それにしても、マルコにそこまで重なり共感していれば、ベニグノの見え方も、当然マルコに沿ったものになるでしょうし、なにか色々なことが成程な〜って感じに思えます。 (イノセントさん) そうですねー。僕はマルコの視線でベニグノを観ていたんでしょうね。だから、ベニグノの心理が手に取るように伝わりましたし、映画に描かれない部分ですら予感できたんですね。 ヤマ(管理人) そういうのは、個人的にちょっと特別な作品になりますね。 (イノセントさん) 自分の経験が増すに従って、個人的に特別な作品が増えてきたような気がしますね。 ヤマ(管理人) なるほど、なるほど。経験を風化させない生き方をしておいでですからよ。 (イノセントさん) こういう作品を人に薦めると、「つまんなかった」という返事が多いのですが、でも、個人的に特別な作品が一つ一つ増えていくって言うのは、自分自身の重みを実感できるって言うか、嬉しいもんですよね。 ヤマ(管理人) 同感です。 (イノセントさん) 「BARに灯ともるころ」って映画も、そんな作品のひとつです。 ヤマ(管理人) これは僕も観ていますが、僕にとってはそういう作品じゃなかったようで、あまりよく覚えてないんですが、確か父子ものだったと思います。 (TAOさん) イノセントさんに大汗をかかせてしまって申し訳ないですー。 (イノセントさん) 大丈夫ですよ。今は開き直ってますから! 来るもの拒まず、去るもの追わず。 あれっ? この言葉マルコ批判で誰か使ってましたね(脂汗) ヤマ(管理人) はは、TAOさんですよ、TAOさん(笑)。 (TAOさん) じつをいうと、私は映画館で見た直後は、マルコっていい男だなあとハートマーク状態だったのです。とくにあの哀しそうな瞳がよくて・・。 ヤマ(管理人) このフォローが微笑ましくて、いいなぁ(笑)。 (TAOさん) ところが気の毒なベニグノのことを考えているうちに、マルコってば、ルックスもいいし、とりあえず女にも拒まれない得な奴と思い始めたんですよ。 ヤマ(管理人) これってやっぱり得なんでしょうかね。うん、徳なんでしょうな(笑)。 (TAOさん) 生き残った人は損ですね(笑)。 ヤマ(管理人) そうしたもんです。 (TAOさん) おまけに私もまたマルコ体質だったりするんで、 ヤマ(管理人) だからこその諫言だったのでしょう(笑)。 ----------思い込みと現実のズレを迫られる都合の悪さ---- (めだかさん) ベニグノがメインの作品と思いつつ、皆さん、マルコにも一言あったんですねえ(笑)。 ヤマ(管理人) はは、そうみたいです(苦笑)。 (めだかさん) ベニグノとマルコの関係についてはうやむやにしていてあまり考えていなかったのですが、こちらでのベニグノについての対談を拝見しているうちに見えてきました。 ヤマ(管理人) 何人かで寄ってたかって揉みくちゃにしてると(笑)、おのずと咀嚼が高まってきますよね。とても一人で反芻してては得られない刺激で、楽しいですね。 (めだかさん) 本当に(笑)。 ところで、アリシアが覚醒することがベニグノにとっては本当は都合が悪いのならば、マルコにとってはリディアが植物状態になったことがそれと同じ状況だったのではないでしょうか。 ヤマ(管理人) ほほぅ、それぞれの相方の都合の悪さということにおいて、アリシアの覚醒=リディアの仮死状態を対置してたってことですか。僕は、マルコをベニグノに繋いでいくための映画の上での装置として準備されたシチュエイションだとしか受け取ってませんでしたが、そういう形で「同じ状況」として指し示している、男にとっての「都合の悪さ」が何を意味しているとお考えですか? (めだかさん) 質問の意味を私は把握できてないかもしれませんが、う〜ん・・・「現実とのズレの直面」かな。 ヤマ(管理人) これは確かに都合が悪いですね。 (めだかさん) 自分の世界に疑問を持っていなかったら、これは崩壊の事態でしょう。 ヤマ(管理人) 疑問のなさが過剰だとズレそのものを認知しませんから、逆に崩壊はしないでしょうけど(笑)。でも、当て外れみたいなことだったり、ズレを認識できないけど違和感として感じ取ることだけはできるっていう場合もありますよね。んで、なんでだろー、なんでだろーって苦悩するんですよね(苦笑)。傍から見れば、自明のことだったりしても。 (めだかさん) マルコの場合、現実とのズレの直面が決定的だったのは、リディアの事故の原因を知った時でしょうけれど。 ヤマ(管理人) 想像もしてなかったでしょうね。 (めだかさん) 先に共依存の典型というご意見がありましたが、私はマルコはその極端な例ではなく普通の人の持つ傾向内の表現だったと思います(笑)。 ヤマ(管理人) ええ、僕もそう思いますね。 (めだかさん) だから、マルコに共感した方は多いのではないでしょうか。 ヤマ(管理人) イノセントさんは、「マルコの生き方って僕にはカッコ良く映った」とおっしゃってますよね。 (めだかさん) こうマルコを見るあたり、実は私はかなりマルコに共感していたのです。つまり、私も共依存傾向がかなり有り!ということになるかも(笑)。 ヤマ(管理人) ほってはおけない者の存在が必要だってことですか。主婦なさってる母親なら事欠かないでしょう?(笑) (めだかさん) ヤマ様、それは冗談にならないです(大汗)。絶対に避けなくてはならないことですから、常々の自省は切実なのですよ。 (TAOさん) 私も書くほどにたらーりたらーりと汗かいてます(苦笑)。 ベニグノにとってのアリシアの覚醒とマルコにとってのリディアの植物状態が同じ状況だというのは、あ、そうかー、なるほどという感じ。マルコにとっては、リディアの傷ついた心が必要だったのであって、心が不在の肉体には用事がないわけですもんね。 ヤマ(管理人) 必要なものが失くなり、必要でないものが残っている都合の悪さということなのかな? (めだかさん) それもありでしょうけれど、この見方って彼らは必要外の部分は本当にどうでもよかったみたいで、なんだか情けなくなってきました(-_-;) ヤマ(管理人) どうでもいいとかいう意識さえなく、視野に入ってないってことですよ。視野に収まってもなお、どうでもいいと思ったか否かは不明ですし、視野に入ってないものが視野外にあるとの自覚は、無知の知と同様、観念的には理解できても現実に即して備えるのは非常にむずかしいことだろうと思いますよ。 (めだかさん) 厳しいことを言ってますが、これでもイノセントさんとTAOさんと同様、私もかなりマルコをいい男と思ってたんですけど〜^^;。 ヤマ(管理人) いい男とまでは思いませんでしたが、ベニグノに比べると遥かに理解も共感も持ちやすい人物でした。 (TAOさん) さて、そうすると、この映画のテーマのひとつは、こころとからだの両方を同じように愛すること、のむずかしさ、なのかもしれませんね。 ヤマ(管理人) なるほど〜、巧みな導き出しですね。言われてみると、これは確かにあの作品に描かれていたものだったように思います。めだかさんのご指摘から導かれる主題として、図星のような気がしますね。 (イノセントさん) それにしても、次々といろんなテーマが見えてきて、本当に、この映画って奥深いですね。 ヤマ(管理人) そうですねー。みんなで持ち寄らなければ、とてもここまで辿り着けませんよね。 ----------アリシアは強姦されたことをどう思うか-------- (イノセントさん) ところで、アリシアって、多分強姦されたことを知らされぬまま、第二の人生を歩むことになるんでしょうが、 (TAOさん) なんとまあ、私はてっきりアリシアはすでに知ってるものとばかり思ってました! 出産の時に意識が戻ったと思いこんだからでしょうか。我ながら早とちりです。 ヤマ(管理人) このへんは映画では明示はされてなかったように思いますよ、自信はありませんが。 (イノセントさん) これって、僕も実はあいまいなんですが、映画を観ているときは、少なくともアリシアが子供の事を知る前に、あの厳格な父親が子供を下ろさせたと思いこんでました。どうでしたっけ?? (TAOさん) あ、なるほど。私は死産だと思ったんですよ。それだと、死と再生がクロスして美しいので(笑)、いかにも神の見えざる手が働いてそうでしょう。 ヤマ(管理人) そうですね。僕も日誌に書いているように「死産」と思っていました。でも、アリシアは死産を知らぬまま出産後に目覚めたと思っていました。確か、マルコの面会場面で「死産」という言葉は出てきたように思うのですが、無論それが映画のなかでも事実を語っているとは限りませんよね。 んで、改めて考えてみれば、父親にしても、医師たちにしても、アリシアの妊娠がベニグノのもたらしたものだと知って、しかもそれが二、三回は生理の到来を誤魔化していたとはいえ、比較的早い段階で知り得て、何らの処置もしなかったと考えるほうがむしろ不自然かもしれないという気はしますね。でも、ドラマ的には死産と引き替えにっていうほうが断然いいですね。 (めだかさん) これ、確かベニグノの弁護士が死産だと言ってましたね。本当かどうかは分かりませんけれども。「死と再生のクロス」という見方は、とても面白いですね。 ヤマ(管理人) 弁護士でしたか。そうだったようにも思いますね。僕はTAOさんへのレスで「マルコの面会場面」って書いちゃいましたが、いずれにしても弁護士経由だし、本当かどうかの保証はありませんよね。 (めだかさん) ヤマ様のご記憶で正しいです。弁護士経由でマルコが聞いたことをベニグノに伝えたので。目的語を省いてすみません。 (イノセントさん) それで、仮にアリシアが知らなかったとして、もし何かの機会に、その事実を知ったとしたらどう思うのでしょう? というか、監督は観客にそのテーマを委ねた訳ですが、皆さんどう思います? ヤマ(管理人) 元ネタのように感謝にまで至るかどうかはともかく、いつまでも拘泥はしないような気がしますね。近頃流行りのPTSDなんてことも考えられなくはないけれども、人間の生命力って本来強靭なものだったように思いますので、そうであってほしいという願望っていうのが本音かな。でも、だからと言って、行為自体が正当化されるべきものだとは思えませんけど。 (イノセントさん) もちろん、ベニグノはその罪を償うべきでしょうが、アリシアは、皮肉にも強姦されなければ、一生覚醒しない可能性が高かったと思われますよね。 ヤマ(管理人) それはそうですね。 (めだかさん) 私にとってもこの映画のレイプ行為(正しくは懐妊が、ですか?)がアリシアの回復をもたらしたと見られる展開は非常に不快で受け入れ難いものでした(溜息)。 ヤマ(管理人) 不快であっても、そういう事実が発生したとき、それをどう観るかってことなんですよね。僕は、その事実自体に対しての不快感はないのですが、日誌に綴ったように「ベニグノの愛の勝利」のような展開を示すと、まるでそれを正当化するようディレクションしているようでスッキリしなかったわけです。でも、「ベニグノの愛の勝利」自体に異見を持ち得る物語だということをここでの対話で得られて、大いに喜んでいるところです。 (イノセントさん) 以前テレビ番組で、綾戸智絵が若い時単身ニューヨークへ渡る前のお母さんの助言は「男にレイプされそうになったら、拒まず犯されなさい。それで命が助かるのだから・・・」 その時は、こんなかあちゃんもいるんだ!と驚愕しましたが、映画のテーマとも繋がりますよね。 こればっかりは、女性の立場で考えることができないので、僕なんか、そりゃ命のほうが重かろうぐらいにしか考えられないのですが。 ヤマ(管理人) これは凄いですねー。女性の強さでは済ませない重みがありますね。 レイプ被害にあった女性の多くが陥る心境に、先ず「自責」というのがあるんだそうです。そんな必要はないはずのことなのに、屈辱感とともに決まって自責の念に駆られるそうです。それを見越して、あらかじめ命を守るために正しいことをしたんだと思える道筋を与えてあげるというのは、非常に深くて賢い愛情であるばかりか、そのことに対する心配が生半可ではなかったことが偲ばれます。それでも、娘の選択を封殺しない母親って立派ですよ。 (TAOさん) アリシアが知ったらどう思うのかとの問い掛けですが、私は大丈夫だと確信します。昨日、この映画のテーマのひとつは、心とからだを同時に愛することのむずかしさだろうと書きましたが、心抜きのからだの事故は、たぶんPTSDにはならない気がするんです。 ヤマ(管理人) なるほど。 (TAOさん) ありがたいことに実感もないので、自責の念のもちようもないですから。 ヤマ(管理人) これは間違いなくそうだろうって気がしますね。 (TAOさん) 嫌悪感は感じるかもしれませんし、周囲の白い目や、恋人の理解が得られないとなると、つらいかもしれませんが、奇蹟を体験した後で、そんなことは、おそらくとても小さい問題に感じられるのではないかと。ベニグノに感謝はしないかもしれないけど、哀れむぐらいの懐はもてそうな気がします。 ヤマ(管理人) うん、そうだといいなぁ。 (TAOさん) ヤマさんと同じく、そのぐらいの強靱さと再生力を本来女性はもってるはずだと思いますね。 ヤマ(管理人) そうですよね。 (TAOさん) その点、綾戸智絵さんのおかあさんの助言はすばらしいですよね。この母子なら、ベニグノに感謝しそう。 ヤマ(管理人) はは。 (イノセントさん) 彼女のお母さんの助言は本当に凄いですよね。あのお母さんにして、綾戸智絵の今があるんですね。 (TAOさん) ええ、あのエピソードを聞いて、綾戸智絵は一代にしてならず、と思いました。歌ももちろんですが、トークのときのパワーもはんぱじゃないですよね。 以前、内田春菊の自伝的小説「ファザーファッカー」を読んだときも、やっぱり女の子ってこのぐらい強いんだーとすがすがしい思いがしました。 ヤマ(管理人) 僕は読んでませんが、これ映画にもなってるんじゃありませんでしたっけ? そーか、清清しい小説なのか〜。 (めだかさん) ヤマ様とTAOさんのおっしゃるとおりですが、それでもそのお母さんの助言は、加害者からは「レイプ犯罪は傷害や殺人よりも軽い」という解釈をされる可能性を含んでいるようでお聞きしていて少し複雑でした。 ヤマ(管理人) 必ずしもレイプは悪い事ではないって、たいしたことじゃないよ、みたいなことなんですね。まぁ、この映画を観て考えがそっちに変わるっていうことはないでしょうが、僕が「正当化するようなディレクション」と書いたとこと通じますね。 (めだかさん) はい、そうです。勿論、綾戸智絵のお母さんもそういうつもりで助言しているのではないし、良識がある方はそう都合良くは受け取らない言葉なのですが。 ヤマ様が、人間の生命力って本来強靭なものだからと言って、あの行為自体が正当化されるべきものだとは思えないとおっしゃってましたが、そういうことですね。私は、行為の正当化は論外で、レイプ犯罪が傷害や殺人よりも軽く扱われることに不快感が沸きます。 ヤマ(管理人) そうですよね。それは僕もそう思いますよ。一般的に抵抗のあることを特別な関係のもとに受け入れ合っていくのは、それが相当に倒錯性の強いことであっても、OKでしょうし、その場合、特殊なことほど逆に特別な関係であることの強化にも繋がるでしょうね。 肝心なのは「受け入れ合っていく」後段の特別さのほうで、前段の「抵抗のあること」の持っている特別さではないですよ。抵抗と受容の見極めというのは非常にデリケートな部分を含んでいますが、ハナから受容に頓着しない行為は暴力以外の何物でもありませんね。 (めだかさん) それで、前出の『アタメ』(未見です)や今年に評判が良かった『六月の蛇』のようなのは、私なんかは見ると作品の出来に関わり無く物凄い反発感を起こしそうで怖いんですよ〜(大汗)。 ヤマ(管理人) 『アタメ』はそんなことないんじゃないかなぁって思いますが、『六月の蛇』はアブナイかも。それだけにご覧になっての感想を伺ってみたくもありますけどね(笑)。 (めだかさん) ああ、やっぱり(汗)。ビデオが出たら見るとは思うのですが、愚痴を聞いてください、と今からお願いしておきます^^; ヤマ(管理人) おおー、そいつは楽しみだ。それはそうと、これも奇遇ですが、次の更新での直リンクは、この『六月の蛇』ですよ。 (めだかさん) それにしても、ホントにTAOさんのおっしゃるところの、「神の見えざる手」(経済学じゃないけど神的には恒常性が保たれてるんだろうなあ)。人智の及ばない領域の割り切れなさというか、不条理の表現になんとも複雑な思いをさせられたものでした。 こちらのおかげで大分、落ち着かせて頂きました。ありがとうございました(^^)。 ヤマ(管理人) それはよかった。こちらこそ、ありがとうございました、ですよ(嬉)。 (イノセントさん) ヤマさんの「願望っていうのが本音」にしても、TAOさんの「大丈夫との確信」にしても、ほんと、そうであって欲しいですよね。 でも、人間の生命力が強靭ということについては、肉体的には、強靭かなと思うのですが、精神的には、とても弱いものではないかと最近思うようになりました。 ヤマ(管理人) 近頃は、本来的なものを加速度的に失ってきてますからねぇ。 (イノセントさん) 人間誰しも、躁鬱になる可能性は案外身近に持っているような気がします。 (TAOさん) ええ、ほんとに近頃ではそれを実感していて、自分もいつそうなるかわからないと思います。ただ、鬱は心の風邪のようなものなので、長引くことはあっても、生きてさえいれば、また元気になる実例も身近に見ていて、そこに生命力の強さを感じるのです。 ヤマ(管理人) 僕も身近に、短期とはいえ、入院までしたけど、今や旅行にも出たりできるようになっている実例を知ってますよ。 (イノセントさん) 躁鬱になる可能性があっても誰もがそうはならないのは、やはり人間関係のバランスでしょうし、 ヤマ(管理人) これ、とっても重要なとこですよね。ここで求められるのがコミュニケーション力ですよ。 (イノセントさん) アリシアにしても、例えばバレエの先生が支えになることでしょう。 ヤマ(管理人) あの先生は彼女にとって重要人物だと僕も思います。 (イノセントさん) もし、父親とだけの人間関係だったら、いずれ精神が破綻するような気もします。 ヤマ(管理人) なるほど。 ----------話はアリシアの父親にまで(笑)-------------- (イノセントさん) そういえば、あの父親心理学者でしたよね。 (TAOさん) お、次はアリシアの父親に移りますか?(笑) たしかにあの人、いろいろと問題ありそう。情緒にとぼしそうな人ですよね。 ヤマ(管理人) 精神科医、父親、と来れば、TAOさんの食指動いて当然かも(笑)。 (イノセントさん) 心理学者、精神科の医者、冷静に分析している時はまだしも、感情を剥き出しにしたら、こういう人ほど逆に怖いですよねー。 ヤマ(管理人) 職業的に人の心に関わっている人っていうのは、逆に却って自分の心に対して、自然な距離感が持ちにくくなるのではないかという気がしています。ものすごく勝手な思い込みですが(苦笑)。人間の心って、そんなにオン・オフに切り替えられないと思いますから。 (イノセントさん) 人の感情はコントロールできても、自分の感情をコントロールできない人が多いんじゃないかな?(多いという根拠があるわけじゃないんですが) ヤマ(管理人) コントロールできるできないというのとはちょっと違うんですが、自分の心に対する向き方が不自然というかいびつなものになりそうな気がするんですよね。 (TAOさん) ナンニ・モレッティの「息子の部屋」はごらんになりましたか? ヤマ(管理人) イノセントさんは、どうでしょう。僕は、彼の監督作品自体、一本も観る機会を得ずに来ておりますよ(とほ)。 (TAOさん) 息子を亡くした父親の話なのですが、まさに、心理カウンセラーが自分の喪失感を埋めるのはいかに困難かをまざまざと見せてくれます。彼が立ち直っていく過程がまたディープで、そのくせ淡々と品のいい作品でした。 ヤマ(管理人) いやぁ、いかにも観たくなるような作品ですね。 (イノセントさん) 『息子の部屋』は、僕も観ました。アリシアの父親の事を書くとき、僕もこの映画を思い出していました。息子を突然なくした父親の、ぶつける先のない怒り・辛さ。悶々と苦悩する日々。ストーリー展開も僕には悶々としていたように感じたのですが、ラストの展開から振りかえって、父親の苦しみを和らげてくれたのが、結局時の流れだったように思い、苦悩を和らげ包み込んでくれる時の深さを実感しました。そう思うと、映画自体の悶々とした展開は、逆に時の重さを示しているようにも感じられ、この映画に愛着を持ちました。 この映画が、カンヌで受賞したことはちょっと意外な気もしました。僕にとっては、むしろ個人的に特別な映画の部類に入ると思ったからです。 ヤマ(管理人) 上映されるチャンスがあったら、これはもう観逃すわけにはいきませんね、僕も(笑)。 (TAOさん) イノセントさん、やはり「息子の部屋」をごらんになってたのですね。私には、息子の死の後、淀んで止まっていた父親の「時間」が、とある事件をきっかけに、再びゆるやかに流れ出したように見えました。そして、ジャック・ニコルスンが娘を亡くす「クロッシング・ガード」といい、「息子の部屋」といい、不幸な事実を受け入れ再出発するのは、やはり母親の方が早いのだなとも思ったのでした。女は子供を失ってもその気になればまた産めますからねー。もちろん、これは作品の主要なテーマではないのですが、きっとヤマさんのテーマのひとつでしょう(笑)。 ヤマ(管理人) イタタタタ!(笑) 女性に対するこの尽きせぬ関心というか、執着って何なんでしょうね(苦笑)。女好きって言っちゃえば、一言で済んじゃいますが、いくつになっても垢抜けないことで(たは)。 ----------十日に及ぶ対話を終えて---------------------- (イノセントさん) 更新のお知らせに、もう10日も対談してたんだとびっくりです。 ヤマ(管理人) ホントですね〜(笑)。ずっとワクワクしてました。 (イノセントさん) ヤマさん、TAOさん、めだかさん、有意義な対談に参加させていただきありがとうございました。 ヤマ(管理人) こちらこそ、ですよ。管理人冥利に尽きるとても刺激的な対話の連続でした。 (イノセントさん) ひとつの映画に対して、これほど深く思いをめぐらせたのは初めてです。 ヤマ(管理人) 悪くないでしょ?(笑) (イノセントさん) 皆さんのお陰で、次々と新たな発見があり、この映画が内包していたいろんなテーマを味わうことができました。それに、皆さんのさりげないフォローにも感謝(涙)。 ヤマさんの追記も拝見しました。なかなか感慨深いものがありますね。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。対話で得たものを自分のなかでちょっと整理しておきたかったのと、編集採録は随分先になっちゃうだろうから、早めに日誌の補足をしておきたかったもので、急遽、添えることにしました。 (イノセントさん) 何という偶然でしょうか。僕の町で、来週17日『トーク・トゥー・ハー』が、再上映されるのです。皆さん、お越しになりませんか? 九州の田舎町ですが・・ ヤマ(管理人) なんとまぁ(笑)。再見するといろいろ確認できそうですね。さらにまた新たな発見があるやもしれない。 (TAOさん) ヤマさん、みなさん、こんにちは。もう10日も!ときいて、改めてびっくりしました。 ヤマ(管理人) ほんとにね〜(笑)。 (TAOさん) 前回の更新では、「エデン…」についてもふれたかったのに、トークにかかりきりですっかり忘れてました(笑)。 ヤマ(管理人) これまた、ジェンダーもコミュニケーションも大きな主題となっている作品ですものねー。 (TAOさん) また次の機会に。 ヤマ(管理人) 楽しみにしてます。日誌を再読してみたんですけど、褒めすぎですかね(苦笑)。 (TAOさん) ヤマさんの追記も拝見。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 (TAOさん) じつは、こんどの採録は編集がたいへんだろうなあと心配していたんですよ(笑)。 ヤマ(管理人) きっとね(苦笑)。話題が広範でかつやりとりが錯綜してますし、ね。でも、採録甲斐のある対話でしたので、なんとか頑張ってみます。既に採録を楽しみにしていると伝えてくださった方もおいでますし(えへ)。 (TAOさん) でも、この追記にすでにこの10日間の成果が凝縮されていますね。深く、刺激的な内容でした。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。ほんと、いい対話をさせてもらったな〜と感慨深いです(感謝)。 (TAOさん) このバーチャル合宿に加われたことを、とても光栄に思います。 ヤマ(管理人) とても嬉しいです。四人がかりなればこそ、生まれた追記でしたよ。 (めだかさん) 追記を拝見しました。巧くまとまっていて、とても読み応えがありました。こちらの追記の視点でもう一度再観賞したくなりましたね(^^)。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。それは嬉しいな。 ホントみなさんには大感謝ですよ。お読みくだされば一目瞭然のように、みなさん各々方から出していただいたキーワードが全部合わさって帯びてきた色合いですよ。 (めだかさん) 10日以上もこちらで楽しい時間を過ごさせて頂きました。途中からの参加でしたが、皆様快くお話に入れてくださって嬉しかったです。 本当にありがとうございました。 ヤマ(管理人) 本当に楽しく刺激的でしたね。こちらこそ、ご参入、ありがとうございました。おかげさまでグッと深まりましたし、盛り上がりました(感謝)。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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