『めぐりあう時間たち』をめぐって
(TAOさん)
神戸美食研究所」:(タンミノワさん)
Across 211th Street」:(Tiさん)
K UMON OS 」:(シューテツさん)
DAY FOR NIGHT」:(映画館主・Fさん)
多足の思考回路」:(めだかさん)
ヤマ(管理人)


 

(TAOさん)
 ヤマさん、こんにちは。
 「めぐりあう時間」はつい先日見てきたところですが、帰りがけに50代らしき女性のグループの一人が、「あー辛気くさい映画だったわねー。だいたい説明が足りないのよ」と身も蓋もない言い方をしていたのを聞いて、苦笑しました。いかにも闊達でサバサバした人でした。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、TAOさん。
 そういう人たちにとっては、まさにそういう作品でしょうね(笑)。そのお言葉にも、言ってること自体に間違いは、どこにも感じられませんよね。確かに辛気くさいし、

(タンミノワさん)
 私もやっとこさ「めぐりあう」観てきました。映画の内容からも客層は予想がついたのですが、レディスデーということもあり、中年女の集会と化した劇場内(笑)。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、タンミノワさん。
 なんか僕なんかが紛れ込んだら、窒息しそうですね(笑)。『めまい倒れる時間たち』ってなことになりそー(笑)。
 おまけにTAOさんが小耳に挟んだ感想のとおり、説明はかなり略されていて『ダロウェイ夫人』を知っているといないでは、観る上で雲泥の差ですもん。

(タンミノワさん)
 やはりそうですよね。私も観終わった後、これ「ダロウェイ夫人」を読んだことのある人なら、もっともっと楽しめたんだろうなあって思いました。もちろん、読んでなくても楽しめるんですけど、やっぱ小説を題材にした映画って、それを知ってる方が絶対楽しめると思います。

ヤマ(管理人)
 映画化作品の原作ってことじゃなくて、モチーフとか題材の場合だと絶対的にそうですよね。キリスト教圏の映画を観ていて思う聖書物語だとか西洋の神話だとか、歴史や芸術、風俗についての素養でも同じようなことが言えますよね。スポーツものであれば、その競技のルールを知っていて、観たりやったりしたことがあるとないでは、かなり違いますし、ね。

(Tiさん)
 ヤマさん、こんにちは。
 あ、やっぱり『ダロウェイ夫人』って重要だったんですか…。『めぐりあう時間たち』、僕はなんだか『レクイエム・フォー・ドリーム』級の迫力のスリラーとして観ちゃいました(笑)。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、Tiさん。
 おっと〜、『レクイエム・フォー・ドリーム』が出てくるんですか? 何か意表を突かれっぱなしだぞ(おろ)。でもって、スリラーですか(笑)。Tiさんの感想の「癒しの不在」ってのと、どんなふうに繋がるのかな? もうちょい補足を(ヘルプ!)。

(Tiさん)
 ジュリアン・ムーアが壮絶すぎたので、あまりドラマとして観ることはできなかったってことです(笑)。あの煮詰まりきった閉塞感は僕も身に憶えがあるので、『レクイエム・フォー・ドリーム』並に怖かったんですよ〜。

ヤマ(管理人)
 なるほど。そーゆーことですか。体験上、忍び寄るコワサというものを知っていたってことですよね。

(Tiさん)
 そこまで行っちゃったら、もうどこにも「癒し」なんてなくて、家出なり自殺なりで人生をひっくり返すしか逃げ道ないんじゃないかっていう…。

ヤマ(管理人)
 これがなかなか大変なことだったりして、簡単にはいかないんですよね。

(TAOさん)
 ひえーそうですか。私、原作も未読、映画も未見でしたー。映画を見て、そうかそうかきっとこういう話なんだなと類推してたんですよ。おかげで眠るヒマもなく謎解きに追われたわけだ(笑)。

ヤマ(管理人)
 スリラーの次は、推理ものか〜(笑)。意表突かれッ放しだなぁ。フツーの感想はないのか、フツーの感想は(笑)。

(TAOさん)
 ヤマさん同様、私も若い頃に自殺したいと思ったことがいちどもない人間なので、見る前はちょっと不安だったんですけど、

ヤマ(管理人)
 おお! 同士よ! 若い頃、それを咎められたり、呆れられたりはしませんでした?(笑) 僕なんか人生に対する感受性の欠如のごとく言われたんだけどなー。

(TAOさん)
 おあいにくさま(笑)。私の場合はあらかじめ自らの感受性の欠如を自覚して、神妙にしておりましたからねー。というか、事実を隠してましたね。ちょっと恥ずかしくて。だからセーフ。

ヤマ(管理人)
 ずるいなー、尻尾を隠してたんですね。

(TAOさん)
 <沈黙は金なり>って言うでしょ(笑)。

ヤマ(管理人)
 やっぱり「沈黙は金」ですか(とほほ)。でもねー、男は黙ってバカビール!ってなマッチョスタイルもなぁ〜。ま、なんでも程々がよろしいようで(苦笑)。

(TAOさん)
 で、こいつはきっと同類だなと目をつけた人にこっそり探りを入れては、やっぱりーと安心してました。

ヤマ(管理人)
 賢かったのね、お若いときから(笑)。人生に対する感受性の欠如のごとく言われたときは、ちょっと悔しかったんだけどなー、僕。

(TAOさん)
 ヤマさんもきっとそうだろうなーと思ったんですよね。

ヤマ(管理人)
 あはは、類は友を呼ぶって?(笑) 嗅覚ですなー。

(TAOさん)
 なんでだろう、ゆるぎなき自己肯定が感じられるからかな。別名脳天気とも言うけど(笑)。

ヤマ(管理人)
 どっちも始末が悪そうですね(笑)。前者は重たそうで、後者は軽そうって、ニュアンス違うのに(笑)。

(タンミノワさん)
 で、若い頃、自殺を考えた事がない派の私としても、彼らの生と死の境界線を危うく行き交う姿ってのは、自己投影できないんですが、

ヤマ(管理人)
 お、御同輩! 人生に対する感受性が欠如してたんですね(笑)。

(タンミノワさん)
 でも、閉塞感に閉ざされるってのは、お得意なジャンルなので、かなり入り込んで見ることができました。

ヤマ(管理人)
 この軽妙な表現には思わず快哉(笑)。

(タンミノワさん)
 この映画って、自殺をめぐるお話なんだし、最後は自殺シーンだったり、登場人物は自殺したりす るんだけど、救済の話になってる気がしたんですよね。

ヤマ(管理人)
 入り込んで観て、得たところが「救済の話になってる気がした」というのであれば、なんか観てよかったですねー、得意ジャンルだけに(笑)。

(タンミノワさん)
 時間軸を超えて、物語が人を救うというのを映像化したお話というのは初めて見たので新鮮でした ねー。

ヤマ(管理人)
 『ダロウェイ夫人』の物語は、作者ウルフを自殺から救うことはなかったけれど、ローズを救い、クラリッサの受容の礎になったということですね。なんか、ようやくマトモな感想が来たぞ(笑)。スリラーだとか、推理ものだとか、いうんじゃなくて。

(タンミノワさん)
 作家と、その物語が同時進行というスタイルの映画とかは観たことあったんですが。

ヤマ(管理人)
 あったような気がしますねー、なんだっけなぁ。

(シューテツさん)
 ヤマさん、タンミノワさん(はじめまして)、横入り失礼します。
 ヤマさんと今回私の家で話題になったこの作品の話と、タンミノワさんの今回の発言内容が非常に似ていたので、凄く面白かったです。特に『ダロウェイ夫人』を読んでいればもっと面白かっただろうという話や「この映画って、〜救済の話になってる気がしたんですよね。」との発言の部分については、私もヤマさんの感想を読ませていただき同じような事を言いましたね。(笑)

ヤマ(管理人)
 ようこそ、シューテツさん。
 そうそう。僕の日誌のコピーを持参してて差し上げたんですよね。ネットにアップされているフォーマットではなく、僕のファイルノートのスタイルのものを。
 でもって、僕は自分が読んでもいないくせに、映画で観た『ダロウェイ夫人』のおぼろげな記憶をもとにあれこれ言っていたような気が(苦笑)。

(シューテツさん)
 ウルフの夫が何故小説の中で人を死なせるんだという質問に「生きている人を際立たせる為のコントラスト」のような台詞がありましたが、まさにこの映画がこの言葉を実践しているんだ、って話をしたんでしたよね。

ヤマ(管理人)
 今回の大阪詣では、僕は『酔っ払った豚の時間』状態でしたから(笑)、あんまり記憶に自信がないのですが、僕が同性愛をどうとか言ってることより、この台詞についてのシューテツさんの思いとして、それこそが『めぐりあう時間たち』という映画の基軸になっている構造だと思うという話を聞いたように思います。観る側が生の実感を再認識するというか、観る側にそういうことに目を向けさせる意図をもっている作品だというようなことを。

(シューテツさん)
 会話の細かな部分までは思い出せないのですが、ちょっと思い出したので、失礼して横入りさせていただきました。

ヤマ(管理人)
 僕もすっかりそうなってます。なんかいろいろ一杯話しましたよね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 あ、僕も『さぐりあう痴漢たち』(笑)

ヤマ(管理人)
 ようこそ、Fさん。これ、面白いよ〜!(笑)

(映画館主・Fさん)
 ・・・もとい、「めぐりあう時間たち」には同じこと感じました。

ヤマ(管理人)
 シューテツさんの話とはモロかぶりでしたか(笑)。あれって、やはり己が生を見つめ直させる話なんでしょうね。

(映画館主・Fさん)
 自らの生を仮モノではなくちゃんと我がモノにしろ!・・・とでも言うのでしょうか。3人の女たちのうち、ジュリアン・ムーアは、自ら自殺を回避する。メリル・ストリープは、まるで身代わりのようにエド・ハリスが死んで、彼女は生き残る。そして、元々の発端である小説を書いたニコール・キッドマンは、死を選んでしまいますね。
 それだけ見れば三人三様で、必ずしも僕が感じた主張と沿わない感じもしますが。でも、エド・ハリスは「生かされている」人生、生の実感がもはやない人生からの離脱でもって、逆に自らの生を際だたせた。そして、身をもって「自らの生を生きよ」と、ストリープに訴えるわけですよね。

ヤマ(管理人)
 ウルフが『ダロウェイ夫人』でセプティマス青年を自殺させたことの意味を、この映画ではウルフ自身に語らせていたわけですからね。

(映画館主・Fさん)
 さらにはキッドマンですら、あれはただの自殺じゃない。安全圏に身を置こうとすれば出来たのに、あえて積極的な生を選んだ末の死なのですから、あれはあれで生の完全燃焼なわけでして。

ヤマ(管理人)
 このへんは僕は少々見解が異なるのですが、選んだ死であることは間違いないですね。

(映画館主・Fさん)
 そういう意味で、僕はやはり先日見た塚本晋也の「六月の蛇」と共通するものをどこか感じました。・・・というか、今は映画のそういう面ばかりが目についてしまうのかもしれませんが。

ヤマ(管理人)
 おおー、これ観たいと思ってるんですよ、僕も〜。エロいとか聞いたし(笑)。
 でも、そーか、みなさん「生」の映画だと観ているわけですよね。僕は、映画『ダロウェイ夫人』の印象からか、この作品ではむしろ「生よりも死のさす影のほうが濃厚だ」と感じてるんですよね。でもって、自分に死に誘われる感覚への馴染みがないから、よくできた作品だと思うけれど、実感をもって臨めなかったとぼやいてる(笑)。なんかヘンですね。マッチ・ポンプみたいで(苦笑)。

(TAOさん)
 でも、映画のほうは、実感はないなりに見応えありました。

ヤマ(管理人)
 そうそう。この感じ、この感じ!(笑)

(TAOさん)
 脚本の構成の巧さでしょうね。

ヤマ(管理人)
 そうなんですよ。これが先ず一番目立ってましたね。日誌にもそう綴ったのですが、こんなふうに脚本がまず前に出て印象づけられた映画は久しぶりでした。

(TAOさん)
 それに、ジュリアン・ムーアの巧さ。

ヤマ(管理人)
 近年、ほんとに充実してますよねー。それに、よくいろんな作品に出てますね。

(TAOさん)
 ニコール・キッドマンもよかったなー。例のつけ鼻もよく似合っていて、私には、ふだんの顔よりはるかに魅力的に見えました。

ヤマ(管理人)
 いや、僕はやっぱ『ムーラン・ルージュ』の踊りや『アイズ・ワイド・シャット』のめがねヌードのほうが・・(笑)。

(TAOさん)
 しまった。女教師系めがねヌード忘れてましたよ。私もそっちに一票でした。

ヤマ(管理人)
 へっへっへ。TAOさんなら、こちらのはずですよね(笑)。

(タンミノワさん)
 それにしても、ニコはず〜っとしかめっ面だったなあ・・。意外に、メリル・ストリープが目立ってなかったような気もするし・・

ヤマ(管理人)
 やはりジュリアン・ムーアでしたかねぇ。

(めだかさん)
 ヤマ様、こんにちは。
 3人のダロウェイ夫人どころじゃないダロウェイ夫人たちが集まってますね(笑)。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、めだかさん。御婦人で言えば、めだかさんが3人目かと(笑)。

(めだかさん)
 ヤマ様をはじめ、若い頃に自殺を考えたことが無い方がこちらは多いようですね。
 タンミノワ様(はじめましてm(__)m)とF様のご意見が大変興味深かったので、

ヤマ(管理人)
 めだかさんは、まず「あなたの人生は誰のためのものですか?」という言葉から取り上げておいでですから、Fさんとはモロつながりですよね。

(めだかさん)
 考えたことがある中年女(笑)に乱入させてくださいませ。

ヤマ(管理人)
 おぉ〜、ここでのカミングアウト者のなかでは唯一の、人生に対する感受性を備えておいでの方ですね(笑)。

(めだかさん)
 でも、考えたことがないから感受性がどうのというのはないでしょー(笑)。あれは単なるタイミングや切欠の問題じゃないかと思うんですけどね?
 「『ダロウェイ夫人』の物語は、作者ウルフを自殺から救うことはなかったけれど、ローズを救い、クラリッサの受容の礎になったということが、私は映画からは見えなかったのですけれど、

ヤマ(管理人)
 僕もそうでしたが、タンミノワさんに言われて、おぉ〜と、感心したのでした。

(めだかさん)
 原作には映画とは別の感想を持っていて、F様のアップしておいでの感想と非常に似たものを感じました。

ヤマ(管理人)
 ということは、やはり「生」の作品なんですね。

(めだかさん)
 それで、さっき言った「3人のダロウェイ夫人」というのは原作の邦題の副題なのですけれど、

ヤマ(管理人)
 あ、そうか、そういうことでしたか(笑)。

(めだかさん)
 この3人というのがローラと2人のクラリッサのことのように感じました。ヴァージニアが執筆作の主人公(クラリッサ)に託した”生”を主人公がローラとクラリッサに受け継がれてるという感じかな?

ヤマ(管理人)
 これは僕もまさしくそのようにして造形された3人の女たちって感じでしたね。僕にとってのポイントは、“在り得たもう一つの人生”ってことでしたよ。ここには男女の隔てなき普遍性ありますよね。

(めだかさん)
 これをちゃんと映画でも感じ取ってる方がいらっしゃるということは、・・・・・・ちゃんと映画見てたんかい;>自分
 でも、”生きている”ことを賛美してる話とも救いとしてるとも思えないんですよね。というのは私が自殺願望持ってるからかもしれませんけれど(苦笑)。

ヤマ(管理人)
 これは僕も掴めなかったところで、逆に「生よりも死のさす影のほうが濃厚だ」とか綴ってますもん。僕、自殺願望を持ってないのに〜(笑)。

(めだかさん)
 シューテツ様(はじめましてm(__)m)と「まさにこの映画がこの言葉を実践しているんだ、って話をした」とのことで、興味津々です。ヤマ様、思い出して教えてくださいな。

ヤマ(管理人)
 上にも書いたように『酔っ払った豚の時間』でしたから、やけに心もとない事でして、教えるなんて、とても〜(苦笑)。

(Tiさん)
 僕はリチャードは最期に母を許したんだなと思って、ローラとクラリッサに関しては救いを感じることができたんですけど、

ヤマ(管理人)
 うん、これは、この線のほうが妥当性高いような気がして来始めてますよ、僕も。この話もそう言えば、シューテツさんがしていたような気もするなぁ。

(Tiさん)
 タンミノワさんのご意見で、間接的にそれをもたらしたヴァージニアにとっても、あの結末はある種の救いだったんだなーと思いました。 『めぐりあう救いたち』だったんですね。

ヤマ(管理人)
 今回のタンミノワさんの切り出しは、いつも以上に冴えてましたね。「お得意なジャンル」だけのことはありますよ(笑)。

(映画館主・Fさん)
 正直言うと「めぐりあう」もいいとは思いますし、見た時に衝撃も受けたんですが、やっぱりどこか気取ったところがありますね。つくってる側のオレって利口ってとこが、チラッと見えてしまう。凝りに凝った構成も仇になった気がします。

ヤマ(管理人)
 オレって利口ですか、別に利口ぶっていたとは思いませんでしたが(笑)。「凝りに凝った構成」というのは、そのとおりですね。でも、仇になったというよりは、うまいなぁって感じでした、僕は。
 ただ気持ちの上で僕が近しいものを呼び寄せられなかったのには、自分の日誌に綴ったようなことの外にも意識の外でFさんのおっしゃってるような感じを受けてたってことがあったのかな〜?? よくわかりません。

(映画館主・Fさん)
 やっぱり凝りすぎてしまって、メッセージが一般の人々に届きにくくなった。これは作り手は反省すべきだと思いますね。

ヤマ(管理人)
 このへんは、どうなんでしょうね〜。届く届かないってことの分岐は「凝りすぎ」にあったんでしょうか? もし「救い」が一番のメッセージだったとすれば、確かに僕には届いてこなかったわけですが、「凝った作り」のとこは僕自身はケッコウ惹かれましたし、ね。

(TAOさん)
 ヤマさんが綴っておいでの「生よりも死のさす影のほうが濃厚だ」というの、私もじつは同感です。

ヤマ(管理人)
 おお〜、ここでは少数派なんですけどね(笑)。

(TAOさん)
 若いときとちがって、最近、死がどんどん身近になってますからね。

ヤマ(管理人)
 いくらなんでも、そりゃないでしょ。僕らまだ四十路ですのに(笑)。

(TAOさん)
 というのは半分冗談ですけど、映画の中でいちばん鮮やかに網膜に残ったのは、エド・ハリスの最後の笑顔でした。
 自殺願望ってほどのもんではないですけど、草木が枯れるような自然死でなければ、ギリギリまでやることはやって、もはやこれまで、という具合に、自ら幕を引く死に方に、近頃とっても惹かれてるからかもしれません。

ヤマ(管理人)
 おやおや、TAOさんは僕より一足先に人生に対する感受性を手に入れられたようですね(笑)。

(TAOさん)
 それと、少しでも長く生きていて欲しいと願うのは、周囲のエゴかもしれないなと思っていて、家族や友人がいろいろ考えた挙げ句、やっぱり死にたいと言うときは、むやみに止めないような人になりたいと願っていることも大きいですね。

ヤマ(管理人)
 これは、僕も同感ですね。自己決定というか選択の尊重をしたいですね。ただ、そうは言いながらも、どこのところで「挙げ句」と受け止められるのか、けっこう鬩ぎ合うところがあるんですけどね。

(TAOさん)
 そして、ときには死こそが救済なのだと納得したい。

ヤマ(管理人)
 自分の選択肢としては、未だに全く考えられないんですけど、選択肢の一つとしてあり得るものだということは受け入れてるつもりです。

(TAOさん)
 といいつつ、いざ自分がそういう立場になったら、エゴイスティックにひたすら延命を望みそうで怖いのですが。
 えーと、そう言う意味では、病気の人に、何も考えず、がんばれ、というのはよくないと気づかされるのと同じかな。病気になって、健康のありがたみを知るというよりは、常に病気がちな人や、不治の病気の人の感じ方を知るというか。
 死そのものはわかんないまでも、常に死の影が差している生き方があるのだということをわからせてくれる作品だった気がします。

ヤマ(管理人)
 僕にとっても、まさにこういうふうな作品でしたね。でも、あそこに「救い」を感じ取れる感受性というものには、少々というか、かなり憧れるところはありますねぇ。

(タンミノワさん)
 『まさぐりあうイカンイカン』って件名にしたんですけど、実はネットがつながらなくって

ヤマ(管理人)
 せっかくやから、タイトルの「カ」は「ヤ」にしといてほしかったなー(笑)。

(タンミノワさん)
 少し目を離した隙に・・なんと、膨大な書き込みが・・(笑)。

ヤマ(管理人)
 もちろん作品の豊かさが前提でしょうが、やはり公開時にアップできるとこんなことが起こるんだなーって、常日頃の日誌アップが都会での公開時から後れを取っていることを残念に思ったり、ほっとしてたり(笑)。

(タンミノワさん)
 容量小さいんで、今ダダっと読んだのですが、沢山モレがあったらごめんなさい。(多分ダダモレ)  私もFさんと同様、自殺したウルフとかリチャードの死に何だか希望めいたものというか、自分で選んだ死、という積極的な意味合いを感じましたねえ。

ヤマ(管理人)
 受け手にとっては、生を際立たせるための死という以上のものだったということですよね。僕はどうかなぁ〜。やっぱ、積極的と言うよりは、日誌にも綴ったように「死に引き寄せられる魂」の、積極的でもやむなくでもない、粛々たる帰結という感じですね。

(タンミノワさん)
 めだかさん(はじめまして)が書いてはるように、生を賛美した映画という感じもしないし「生きろ!」というメッセージなんかでも全然ないんですけど・・。

ヤマ(管理人)
 そうですよね〜。生と死ということで言えば、死と対置させての生ということではなく、死という帰結をも含めての生の受容ないしは肯定というのが『ダロウェイ夫人』にも繋がる基軸だろうとは思うんですよね。少なくとも単純な生の賛美や叱咤激励でないことは間違いないですよね。

(タンミノワさん)
 別のところにも書いたのですが、ウルフが生と死の境界線を行き来しながら生み出した作品というものは、それでもやっぱり生きろ、と叫んでいたのかなあと、「ダロウェイ夫人」を読んだことのない私なんぞは想像してしまったんですよね。

ヤマ(管理人)
 単純な生の賛美や叱咤激励でないとしたうえで「それでも やっぱり生きろ、と叫んでいたのかなあ」とという思いを馳せられる感受性を僕は羨み、いいなぁと思ったわけです。そして、それは単に受け手の感受性を越えて、作品に宿っていたものなのかもとさえ思ってしまった次第ですよ。

(タンミノワさん)
 映画でも何でもそうかもしれないんですが、受けとるメッセージって、観る側の希望的観測みたいなのって色濃く反映されていて、つまり私自身が「そう思いたい」人なのかもしれませんね。

ヤマ(管理人)
 何にしても、誰においても、きっとそういうものだろうと思います。あまりに跳び外れてしまうと失笑ものですが、基本的に「主体性」ってそんな程度のことだろうって思うんですよ。でも、だからこそ、主体性って大事なんじゃないかって(笑)。

(タンミノワさん)
 「生きろ」というメッセージをいつも受けたがっているのかもしれない。

ヤマ(管理人)
 叱咤激励ご指導ご鞭撻って鞭打たれるのは鬱陶しくてかなわんですが、受容と肯定に支えられた励ましっていうのは「救い」ですよね。

(タンミノワさん)
 この映画では、まさに、その物語によって、ローラはサバイバルできたんだし。ウルフが身を挺してローラを救ったように見えたんですよねえ・・最後の方は。

ヤマ(管理人)
 こう来ちゃうと、確かに映画は、そのような構成になっていましたものねー。少なくともローラのベッドの下を流れた水は、小説『ダロウェイ夫人』の水ではなく、ウルフの河の水ですよね。

(タンミノワさん)
 それにしても、ヤマさんも書いてはったんですが、濃厚なレズ描写だけがナゾですわ。

ヤマ(管理人)
 これがナゾですか〜(笑)。ま、濃厚っていうより重ね合わされたって感じですけどね。やっぱ、ウルフを素材にし、フェミニズムに立ち入るときに避けては通れないとこだったのかもしれませんね。
 なんか考えようによっては、避けたことを咎められたくないために投げ込んであったというような観方もできる気がしてきたぞ〜(笑)。けど、おかげで僕はこの作品に寄りつきやすくなったんですけどね(笑)。

(タンミノワさん)
 話がどんどん逸れていっちゃいますが(笑)、今回女性同士のキスシーン結構あって、自分はどういう気分になるのかなあと思いましたら、あんまり気持ちよくなかったです。(笑)

ヤマ(管理人)
 まぁ、男からすれば、女同士で完結されちゃうと男に回ってこなくなっちゃいますから、基本的に女性に同性愛を志向されるのは勿体ないですね(笑)。かといって、本人の志向がそれでしかない場合、それを非難するのは筋違いだとも思ってますけど(笑)。

(映画館主・Fさん)
 『からみあうオカンたち』・・・じゃなくて、モチ「めぐりあう時間たち」ですが。
 ええ。あのレズは僕も実はよくわかんないんです。

ヤマ(管理人)
 件名タイトルの「カ」、「バ」と打ち間違えてなくてよかったですね。

(映画館主・Fさん)
 アレのせいで・・・ということもないけど、この映画が女性限定イメージを持ってしまったきらいは、あるんじゃないですかねぇ???

ヤマ(管理人)
 あ、これはそうかもしれませんね。やっぱ、フェミニズムの線が前に出ては来ましたよね。

(映画館主・Fさん)
 あと気取って云々ってのは・・・・う〜ん。どうも掲示板ってのは電報みたいになって、うまく伝わらないですねぇ・・・。でも、見た多くの人がそれこそすれ違っちゃうところがあるように思ったんですよね。やっぱし。

ヤマ(管理人)
 その原因が何にあるのかはともかく、結果的には間違いなくこういうことが起こってますよね。現に、この掲示板で書き込みを重ねている我々の間でも作品との関係では微妙にそうですし(笑)。でも、そこにネガティヴな印象を僕は持ってないんですけどね。

(映画館主・Fさん)
 僕あたりはもうちょっと見失いそうでしたから。

ヤマ(管理人)
 もともと正解なんかないものですし、ね。あ、推理モノって観方もあったんだ、謎解き(笑)。未読の原作や原作の元になったウルフの小説を推理するっていう。ま、でも、それは受け手の側のオプションであって、作り手はそれを意図して映画撮ったわけでもないでしょうからね(笑)。

(映画館主・Fさん)
 実は見た直後、何とも言えない気持ちにはなりましたが、それがすぐにはしかと分からなかったですから。

ヤマ(管理人)
 僕もそうでしたねー。でも、いろいろな御意見を伺うなかで、日誌を綴った時点よりは随分と作品の姿が鮮明になってきたような気はしますね。しかし、それ以上に面白かったのは、やはり作品の姿そのものよりも、みなさんの多様な感受性のほうですよ、やっぱり。

(映画館主・Fさん)
 いやいや、また何か誤解を招きそうだな・・・。あまり調子こいて言ってると墓穴掘るんでこのへんで(笑)。

ヤマ(管理人)
 穴掘り歓迎なんだけどなー(笑)。Fさんが掘ると、出てくるのは大概きわめて興味深い宝の山なんだもの。でも、ここ掘れ、わんわんって言っても、Fさん戌年じゃないんですよね、一つ下だから。犬は僕の歳だよなぁ〜(笑)。

(映画館主・Fさん)
 『ほじりあう墓穴たち』ってことで、墓穴ついでに遺言をば。実はご存知の方はご存知でしょうが、僕は自分トコの掲示板で「めぐりあう〜」についてのレスで冗談半分で書いたんですが。例のジュリアン・ムーアのパートのことです。
 アレってよく女性映画などでは語られることですよね。満ち足りた暮らし・・・でもワタシは空しかった。大概は外面だけそう描いててホントはどう空しいのか分からない。少なくとも男性観客には届かない形で描かれてて、でもオトコはこれが分からないのっ!・・・と女に怒られそうで分かったふりしたりする(笑)。
 だけど、この映画では僕にはピンと来た。あんなにダンナもいい人なのに、ピンと来た。それってジュリアン・ムーアがうまいからって思ったりして、お茶濁したりしたんですけど・・・。

ヤマ(管理人)
 やっぱり言ったとおり、Fさん今回、嬉しい穴を掘って下さいました(笑)。
 「人のいいダンナをボンクラ呼ばわりするクソ女のエピソードになりかねない危険性」を回避して 男にも「ヒロインの痛みが分かるようにつくられていた」との書き込みですよね。Tiさんが「煮詰まりきった閉塞感」の忍び寄るコワサと受け取るほどに描かれていた部分でもあります。
 僕には、実感的なコワサにまでは至りませんでしたが、それは描き方の問題というよりは、TAOさんからご指摘もあったように基本的に僕が脳天気だからだとは思いますが(笑)。とはいえ、受け取り方の程度の問題はあるにしても、僕もそういう部分は受け取っていて、だからこそ「この作品は、生よりも死のさす影のほうが濃厚だ」と感じていたんですよ。ジュリアン・ムーアも巧かったですよね。

(映画館主・Fさん)
 僕は確かタンミノワさんの書き込みへのレスで、どんなにいい暮らしだって人からくれてもらうようなモノは、マトリックスみたいで有り難くないやい・・・って書いた。まぁ、アレは冗談だったんですけどね。でも、ホントにそういう事なんじゃないかと思いましたよ。後からマジでそう思った(笑)。これって重要ポイントかも。

ヤマ(管理人)
 間違いなく重要ポイントだと僕も思ってます。日誌で「この映画では、生の証なり愛の証なり評価の証といった形で“証”へのこだわりと居場所としての落ち着きへの不安が描かれる。」と綴ったのは、まさしくここのところで、生の証への実感というのは人から与えられるものではないだろうってことですよね。
 2001年のクラリッサは、ここのところがまだローラやリチャードほどには分かってない。っていうか、Fさんの感想文に即して言えば、「自分でも分かっている」けど、「目を背けている」ってことですよ。そのことへの自分なりの決着の付け方には、いろいろあって「折り合いをつけて…あるいは諦めて、〜生きていく」というのもあれば、「あえて積極的な生を選んだ末の死」というのもあるだろう、ということですよね。
 この文脈に至るには、やはりどうしても“証”に対する問い掛けというモノが必要なんだと思います。ずっと盛り上がってきている意見交換の中でも、まだこの“証”へのこだわりの部分については、直接的な形での意見交換がなかったように感じていましたので、実に嬉しい穴を掘っていただいたように思いました(感謝)。

(映画館主・Fさん)
 な〜んてテメエの掲示板の事をわざわざ人んとこへ書きに来て、ダボラを吹いてみました(笑)。それでは〜。

(タンミノワさん)
 『めぐりあいイヤンバカン』って、いーんでしょか。このタイトル。格調高い映画なのに・・

ヤマ(管理人)
 管理人の我が儘にきちんと応えてくれるサービス精神が嬉しいですね。もっとも「まさぐりあう」が「めぐりあい」に控えられてますけど(笑)。

(タンミノワさん)
 Fさんの書いてはる重要ポイントってとこですが、何不自由ない主婦が、自己に目覚め夫と子供を捨てっていう設定は「人形の家」のノラのごとく、新しくはないって思ったんですよね。

ヤマ(管理人)
 『ダロウェイ夫人』自体が1923年の作品ですし、ね。

(タンミノワさん)
 それとは別に、例え、自分で稼いでいる人生であっても、人に養ってもらっている主婦人生であっても、閉塞感ってのは訪れるときは訪れる・・というようなモノを感じたんですよね。

ヤマ(管理人)
 設定としての何が訪れるのかってことではなく、その訪れ方とか訪れたときの様相の捉え方ってとこですね。

(タンミノワさん)
 それが主婦であるから、子供を捨てるとかいう形になってしまうので、より女性的に写るんですが、ローラの閉塞感ってのは女だから来たものでもないというか。

ヤマ(管理人)
 そうですね。そのように描かれていたと思います。問題意識として浮かび上がってきていたのは、むしろ「“証”へのこだわりと居場所としての落ち着きへの不安」だろうと思うのです。

(タンミノワさん)
 ローラの閉塞感ってのが男性には全く意味不明のモノに写ってしまっていたら、この映画はかなり失敗してたんじゃないかと思います。

ヤマ(管理人)
 そうはならなかったのは、まさしく「“証”へのこだわりと居場所としての落ち着きへの不安」というものが女性に固有の人生のテーマではないからですよね。

(Tiさん)
 僕は、ローラの閉塞感って、得体が知れないからこそ怖いなあって感じたんですよね。

ヤマ(管理人)
 それはそうですね。そういう怖さならよくわかりますよ。スリリングとかいうんじゃなくて、もっと根源的なものですよね。確かに実感的には僕にはあまり経験がない感覚ですが、煮詰まりって、ふとしたことに囚われ始めれば、誰にでも起こることで、僕も『グッド・ウィル・ハンティング』の日誌に綴ったような部分を深く掘り下げていくと煮詰まらざるを得なくなるかもしれませんよね。それって、確かにコワイことです。

(Tiさん)
 原因もはっきりしないし、どうやったら治まるのかも判らない。彼女自身、あの生活に幸せを感じられない自分を理解できなかったでしょうから、それについての自己嫌悪で、ますますドツボにはまっていくっていう…。

ヤマ(管理人)
 はい、はい、まさしく(笑)。

(Tiさん)
 で、『ダロウェイ夫人』未読・未見者としては、家を捨てたローラは“証”と居場所を手に入れられたんだろうかっていうのがとても気になるんですよね。

ヤマ(管理人)
 これはもう、ローラに惹かれた観客の誰にとっても関心事でしょう。家は出たもののさいなみの果てに死に到っているという心配を掻き立てられた方もおいでることでしょうし、苛まれつつも、あの「死の生活」からは生き延びることができ、カミング・アウトした本来の自己実現に向かえるようになったと受け取った方もおいでることでしょう。

(Tiさん)
 家族を捨てたという事実にさいなまれ続ける日々は、ローラにとっては、あの家で幸せな主婦を演じる生活より辛いものじゃなかったでしょうか…。

ヤマ(管理人)
 そうですねー。匹敵はしていたでしょうね。

(Tiさん)
 …で、時はめぐりめぐって。息子が愛し、生を託した女性が、それでも踏み出せずに震えてる。彼女にヴァージニアから受け取ったバトンを引き継いで、最後の一歩の手助けをする(それは慰めたり励ましたりじゃなくて、彼女に面と向かって、それまでの自分の生を見せるっていうことだと思いますが)。そこで初めて、ローラは“証”を手に入れたんじゃないかなと思うんですよね。ヴァージニアからもらった救いも、そこでようやく完結したのかな…と。

ヤマ(管理人)
 おぉ〜、ここにローラの“証”を見て取りますか。なるほどね。ちょっと唐突な形で出てきたようにも思いましたが、あ、あの後も死なずに生き続けたんだって姿を観客に見せるだけではなくって「もらった救いも、そこでようやく完結」つまりは、救いを次に引き継ぐことで完結の“証”を得たっていうことですね。
 そして、全ては、そこに至る道程としての紆余曲折ってことになるわけですね。なるほど。どんな人生においてもラストステージには“証”が準備されているものなのかもしれませんね。道中で“証”に囚われ、右往左往しなくても、最後には必ず用意されているから、先ずは生き延びよってことですかね。うーむ、面白いなぁ。ローラやクラリッサの救いだけでなく、直球で人生の救いを観客にも投げてきているとも言えるわけですね。

(Tiさん)
 「私は今までこのために生きてきた」なんてクラリッサに言ってしまってはいけないですけど、胸の内でひっそりとかみしめて自分を納得させるには、充分に価値ある行いじゃないかなあって思います。

ヤマ(管理人)
 自身にとって本当に有効な“証”っていうのは、きっとそういうものなんだろうとは思いますね。人から示される評価とか、形になって見える「物」とかではなく。
by ヤマ(編集採録)



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