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『セシル・B ザ・シネマ・ウォーズ 』(Cecil B. DeMented) | |||||
監督 ジョン・ウォーターズ | |||||
ちょうど二十年前、二十三歳のとき『ピンク・フラミンゴ』を観て、ディヴァインの怪人怪演ぶりや例の肛門体操ほか、あまりと言えばあまりの映画に呆れつつも、その過激なパワーには圧倒された記憶がある。そんなウォーターズも去年観た『I・Love・ペッカー』など、怪しげなタイトルには片鱗を残しながらも、ある種の健全さとノスタルジックな感傷さえ感じさせて、成熟とはこういうことなのかもしれないなどと感慨を覚えたものだったが、今回いかにも挑発的でふざけた顰蹙映画らしきものが出てきたようで、内心ほくそ笑んでいた。
確かに呆れた映画だ。過激でもある。堂々と大メジャーUIPの良識作品『パッチ・アダムス』をコケにして肛門性交のポルノ映画を讃え、シネコンをぶっつぶせと吠えたてる。映画のためなら何でもアリを実践し、身の危険も一切省みない製作集団“スプロケット・ホールズ”は、映画狂というよりも映画教のカルト教団の趣で、監督たるセシル・B・ディメンティッド(スティーヴン・ドーフ)は、まるで教祖のように振る舞う。 そんな彼が自分の名前をディメントと呼ばれて、ディメンティッドだと訂正する場面がある。人を発狂させるんじゃ駄目で、自分が発狂してなきゃいけないというわけだろう。そこには、映画というのは只物じゃない特別なもの、映画で観る者を狂わせる作り手は本物ではなく、自身が映画に狂わせられた作り手こそが真の作り手なのだという主張が明確だ。そして、総ての現実的制約を超越して産み出されるべきものこそが真の映画だと言わんばかりにあらゆる場所で乗っ取り撮影をかける。映画とは即ち、現実をジャックするものでなければならないわけだ。どでかいメガホンで叫ぶ「スタート!」と「カット!」の声により、現実の場所と時間は、映画に乗っ取られるのだ。 若々しく過激で威勢のいいメッセージだし、標的にされるのが澄ました良識であったり、権力的で商業主義的な製作興行システムだったりするのは、アンチのベクトルとしては共感したいところのあるものだ。だが、いかんせん映画にかつてほどのパワーが感じられない。作品にそれだけのパワーがないのか、受け取る僕にその種のパワーがなくなったのか一概には言えない気もするのだが、もっと面白くていいはずなのにという思いを拭い去ることができなかった。 かつてと決定的に違っていると思われるのは、作り手の視野に第三者が存在しているような冷静さが常に漂っているところだ。周りが見えない状態で自分の興味の対象に没入し、映画にぶつけるのが精一杯というファナティックな熱気が篭もっているように感じられないのだ。冒頭の多分ボルチモアに現存するであろうさまざまな映画館の表示板を使ったクレジットやらスピロケット・ホールズのメンバーの身体に彫り込まれた個性的な映画監督たちの名前にしても、変に洒落ていて、映画好きには面白く映るのだけれど、これではスマート過ぎてファナティックな熱気など篭もりようもない。皮肉なことに、J・ウォーターズ・ディメンティッドでありたかったはずの彼が、J・ウォーターズ・ディメントになってしまっている。だから、あれだけ個性的なキャラクター設定を施されたはずのスピロケット・ホールズの面々の個性の粒立ちが弱いのだろう。 しかし、割り切ってディメントとしてのウォーターズ作品と観れば、あちらこちらにマニアを喜ばせるネタがちりばめられていて、なかなか楽しい映画だと言えるのかもしれない。あいにく僕にそういうマニアックな嗜好性が乏しいために、それだけでは満足はできなかったけれど。 推薦テクスト1&推薦テクスト2:「Ressurreccion del Angel」より http://homepage3.nifty.com/pyonpyon/2001-5-4.htm#CecilB http://homepage3.nifty.com/pyonpyon/CecilBDemented.htm | |||||
by ヤマ '01. 9. 6. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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