『にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活』('70)
監督 今村 昌平


 先日観たばかりの芝居『流星王者』と相まって、時代の記憶や歴史というものについて再考させられる刺激に満ちた作品だった。
 非差別部落に生まれ、暴力亭主の手を逃れて、戦後まもなく田舎から横須賀に出て、米兵相手のバー“おんぼろ”のマダムをしながら、逞しくアッケラカンと生き抜いてきた女が戦後二十五年間のニュースフィルムを観ながら、自身の生々しい来し方を事もなげにあからさまに語る。原爆投下、玉音放送、政治犯釈放、2・1ゼネスト中止令、帝銀事件、下山事件、三鷹事件、松川事件、朝鮮戦争、金ヘン景気、警察予備隊、公職追放解除、保安隊、砂川闘争、売春防止法施行、三池闘争、皇太子御成婚パレード、浅沼事件、ベトナム戦争、羽田闘争、東大闘争、樺山さん死亡事件etc、僕の目に止まって残っているものだけでも、かくのごとく正に戦後史のオンパレードだ。歴史の教科書に太文字で記されていた記憶が蘇る。しかし、教科書で学んだことのなかには、何処にも生々しさや身体性は宿っていない。ニュースフィルムでさえも、文字よりは遥かに生々しくあるものの、報道の名のもとに装われる中立性などというものが、人の営みを映し出しながらも、そこから血の通いや身体性を奪い取ってしまっていることを再認識させてくれる。
 そもそも歴史などというものは、支配体制の側が自らの存在証明のために編纂していくものだ。それは端から、庶民の時代の記憶の集積とは異なる意図で編纂されていく。個々人の血肉や感情体験には関心がないとしたものだ。一方、庶民の側の時代についての個人的記憶のありようというものは、この作品で悦子らによって語られる肉声のように、生々しさと不思議な共存を見せる「他人事めいた印象すら与えるほどの自己の対象化」によって構成されようとも、血の通いが失せていない。
 人々が語り継ぐべきものは、官製の歴史などではなく、こうした時代の記憶の集積ではないのだろうか。戦後復興の驚異的なエネルギーは、占領政策や高度成長経済政策などによるもの以上に、語りべ赤座悦子が自らの肉体で体現している、庶民の逞しさとバイタリティであったことを実感させてくれる。そして、そんな彼女の姿を更に二十五年のときが経過した今まざまざと目にすると、この国が戦後五十年のときを経て、品位というものを喪失してしまったのもむべなるかなという気がしないでもない。父権も夫権も見る影なく希薄化し、したたかさと逞しさばかりが幅を利かせ、何でもありの無定見無秩序に埋没しながら、言い訳のごとく優しさばかりが求められつつも尊重されない日本社会。善し悪し以前の、言わば「歴史的必然」のように感じさせて説得力に満ちているところが、時代の語りべとして、彼女を選んだ今村昌平の慧眼とも言うべきものであろう。
by ヤマ

'99.11.14. 平和資料館草の家



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