『マルセイユの恋』(Maarius et Jeannette)
『ネネットとボニ』(Nenette et Boni)
監督 ロベール・ゲディギャン
監督 クレール・ドゥニ


 同じマルセイユを舞台にした二つの映画のカップリング上映である。主催者がチラシに書き込んだ“マルセイユの昼と夜、光と影”といった対照は、僕にはどうもピンとこなかった。どっちが『マルセイユの恋』で『ネネットとボニ』だというつもりなんだろう。それよりは主催者の一人が密かに語ってくれた、前者が年配者狙いで後者が若者狙いという対照のほうが遥かに納得がいく。原題では『マリウスとジャネット』と『ネネットとボニ』となるので、一目で判る対照を見せるカップリングになる。そこはちょっと洒落ているなと思った。

 作品的には『マルセイユの恋』が数段上に見えて『ネネットとボニ』には、ほとんど魅力を感じなかった。それは主催者の弁を待たずとも、僕が既に若者ではないからかもしれない。96年ロカルノ映画祭での三冠独占という割りには、言うところの「優しさに満ちた触覚的で官能的な映像世界」が、その意図はあからさまに見えるのに、感覚的には納得できるだけのものが伝わってこない。チラシにカラーで印刷された数カットのスティル写真の印象にさえ及ばなかったのは、先に『マルセイユの恋』を観たからだろうか。なめすぎのカメラワークや意味深で思わせ振りな編集が欝陶しく、登場人物のキャラクターに魅力が感じられない。若い男が自らの性エネルギーを持て余している様子は、自分にも覚えのあることだし、それが女性の目にはこういうふうに映っているのかという妙な生々しさを感じさせてくれたのは収穫だったが、そのことには感心をしながらも、受け取ったものは僕には少し違和感を覚えるものだった。クレール・ドゥニという女性監督は、映画ジャーナリストたちがいかにも持て囃しそうな類の作家性を装うことにたけているだけのように思える。

 その反対に、じわっとした味のある良質な作品として一般の観客の支持は得ながらも、いかにも批評家受けが弱そうなのは『マルセイユの恋』だ。言ってみれば、フランス流の長屋人情物語である。名もなく貧しく美しくもなく、凡庸な人間の不器用で飾らない不遇な人生の紆余曲折を穏やかな語り口で感じさせ、そのなかにある生命力と生きる喜びの豊かさというものをしみじみと綴っている。よくあるような世話物の情緒過多や説教臭というものを感じさせないところが実にいい。底流にある人間観に、例えば嘗ての山田洋次監督作品のような“庶民のところに降りてきた”といった不遜な眼差しがなく、それでいて共感と敬愛に留まらない知性の確かさが窺われる。大上段に構えたところなど、どこにもない作品だが、これはたいしたことだと思う。こういう映画を観ると、生き生きと豊かに人生を重ねていくということは、いわゆる器用に上手に生きることや貧しさから逃れることではなく、むしろそういったことに囚われない、あるいはそういったことから逃れようもない人生のなかにこそ潜んでいるのかもしれないなどと考えさせられて、思わずうろたえてしまった。
by ヤマ

'99. 4.27. 県民文化ホール・グリーン



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