『スリング・ブレイド』(Sling Blade)
監督 ビリー・ボブ・ソーントン


 静かな映画の持つ力強さの確かさをしみじみと感じさせてくれる秀作だった。猟奇的で凄惨な印象を与えるはずの事件を題材に、かくも透明感に包まれた、感性に沁みわたる描き方ができるのは、ただ者ではないと思う。監督・脚本・主演を兼ねた第1回作品とは驚き以外の何物でもない。殊に主人公、カールの人物造形が実に素晴らしかった。独特の風貌、歩き方、声、喋り方、フランク少年ではないが、忘れられない魅力と存在感を醸し出していた。

 12歳のとき母親の不倫現場を目撃し、裸の二人を惨殺した事件によって、17年間(チラシでは25年とあるが、映画では17年間と語られた)精神病院に強制収容されていたという途轍もない過去を背負った知恵遅れの男が、退院の名のもとに突然世間に放り出される。観客は、彼がどんな苦難に出会うのだろうと見守る形でスクリーンに向かうことになるが、カール自身には不安も窺えず瓢々としているし、実際、観る側の不安をよそに彼は一向に災難に出会わず、豊かではない階級の素朴な人々の善意でもって迎えられる。このズレがなかなかの味わいだった。そして、何かが起こりそうだと思わされながらも、そのたびにはぐらかされることによって、素朴な人々の善良さが静かに沁みわたってくる。手放しの受容ではないところがいい。中流階級である院長の家族が緊張し構えた形でしか彼に向かえないのと好対照だ。くだらないジョークか食い物の話、男と女の話しかしない彼らの素朴さに、善良さもリアリティを帯びてくる。

 カールが苦難に出会う心配を観る側があまりしなくなり、人々との交流、特にフランク少年との触れ合いによってカールが人間的感情を深めていく過程を味わうころになって、粗暴なドイルの存在が次第に大きくなってき、観る側は事件の予感に見舞われ、思わずこのままうまくいくことを願いながらも再び不安な気持ちにさせられ、引き込まれていく。実にもって見事な構成と展開だ。

 僕が観ていてハッとしたのは、昔カールが早産で生まれたばかりの弟を捨ててくるよう親に言われ、まだ息があるのに箱に入れ埋めた話をフランクにした後で、永らく自分を避けている父親の住む廃屋を訪ねていった場面だった。老いた父親が酒に酔い、ソファーに深く腰掛けて俯き加減に独り言ちている。25年前に、酔って不覚のままに思い切り頭を蹴ってしまったのだと呟いていたように思う。17年前に12歳だったカールのことなら、彼が4歳くらいのときのことになる。彼の知恵遅れは、それが原因だったのかもしれない。なんともひどい話だし、彼がカールを避けたくなるのも道理だ。この台詞を聞いたときに、フランク少年の境遇やカールの死んだ弟のことも含めて、アメリカで大きな社会問題になっている子供たちの虐待ということが背景にあるんだなと感じた。それと同時に、知的障害者には“生まれながらにして地上に降りてきた天使”といった役回りを押し付けられることが多いことに対して、何か釈然としない思いがかねがねあっただけに、父親のこの呟きは僕には重要な意味をもっていた。

 この映画の上映会の主催はムービージャンキーで、同時上映が『デカローグ:第八話“ある過去に関する物語”』(クシシュトフ・キェシロフスキー監督)だった。その作品にも「子供の命が一番大切だ」ということが重要な台詞として出てきていた。二作とも静かな映画の持つ力強さが印象に残る作品だっただけに実に巧みなカップリングだと感心させられた。

 カールが嘗てと異なり、自らの意志で罪の自覚も持ちつつ今度は冷静に再び殺人を犯すことになったときには、いささかやり切れない思いもしたのだが、ラスト・シーンで再び病院の窓際に腰掛け外を眺めやっている姿を見たときには、むしろこれでいいのかもしれないと思った。

 元々カールにはこの病院を出たいという欲求も出ていく意志もなかったのだから、元に戻っただけなのだ。以前とは違って、そういう欲求はなくはないかもしれないが、今回は、強制収容というよりも自らの意志で入院したと言える。そして何よりも嘗ての入院時には、外での生活によき思い出は何もなかったと思われるが、今は違う。フランク少年との思い出だけでなく、夜中にビスケットを焼いてもらったことや花をプレゼントされたこと、人が自分を頼ってくれたり、愛してくれたりし、自分も人のために何かをすることや本だけでなく何かを与えることができたという生きた証を得てきたとも言えるのだ。観る側が当初不安を覚えたような苦難には殆ど見舞われることのないうちに、人に対する新たな憎しみを得ることなく、愛と友情だけを得て帰ってきたのである。

 無論これがベストだとは言えないかもしれないが、少なくとも嘗てのカールよりは、同じ病院の窓際で外を眺めていても救いを感じることができるようになったと言えるのではなかろうか。最善の人生なんてどんな人にだって保証されてはいない。恐ろしく低いところでの話であっても、それ以前の人生より少しましな人生になることはやはり幸いなのではないかと思う。少々高い水準で生きていたところで、それ以前の人生より汚れた惨めさを背負いこむことは不幸なのだから。




推薦テクスト:「olddog's footsteps」より
http://www014.upp.so-net.ne.jp/olddog/impressions/slingblade.html


(2012.10.10.追記)
 拙日誌を読んでくださった方からメールをいただいた。
 「17年間(チラシでは25年とあるが、映画では17年間と語られた)精神病院に強制収容されていたという途轍もない過去」と記した部分について気に留めてくださり、再見したうえで、そのセリフは「ヴォーンのディスカウントショップの営業年数だと思います。」と教えてくださった。
 されば、日誌に綴った25年前と17年前のタイムラグは生じなくなるから、カールが知恵遅れになったのが4歳のときに父親から受けた暴行によるものなのかもしれないと僕が解していた部分は、直接的には繋がらなくなるわけだ。幼児の時分から日常的に酔っては暴行を働いていた可能性までも消すことにはならないけれども、少なくとも酔った父親が独り言ちていた出来事が12歳のときだったら、カールの知恵遅れの原因がその夜のことだということはなくなるような気がする。
 それならば、父親がカールを避ける理由の主な部分が、知恵遅れの兄に生まれたばかりの弟の始末をさせたことに偏ってくるが、いずれにしても父親がある種の悔恨に苛まれているのは、25年前の暴行を呟くだけでも充分に窺えることではあるように思う。鑑賞当時に綴った日誌に記した解釈は、誤認したタイムラグに対して、知的障害を専ら先天的なものにばかりしたがる向きに対する反発というものが敢えて僕に深読みをさせた部分だったのかもしれない。

by ヤマ

'98. 4.28. 県民文化ホール・グリーン



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