『トリコロール/白の愛』(Trois Couleurs BLANC)
監督 クシシュトフ・キェシロフスキ


 「白の愛」は、これまでのキェシロフスキ作品とは、いささかそのタッチを異にしているが、それはチラシに書かれているような軽快なテンポやコミカルな人間模様とかいったこととは違うような気がする。この作品が、これまでの作品と違った印象をもたらす最大の理由は、作品の可塑性を最大限に留保して、観る側のなかにドラマを紡ぎ出させる企てとして映画を創っていると思われるキェシロフスキが、物語を語り伝えることにかなり積極的になった創り方をしているためではなかろうか。そのためにある意味では、これまでの作品よりも観やすく、判かりやすくなっているが、その分だけ彼の持ち味であるイメージ性豊かな語り口がいささか損なわれているような気がする。特に、主人公カロルが失った自信を取り戻すプロセスとして語られる祖国ポーランドでの成功譚は、手際よくスマートに綴られているが、作品全体から見れば、この部分でかなりな量を占めておりながら、やや平板な印象が拭えない。

 それでも、前作青の愛と同じ形となる主人公の落涙で終るエンディング・カットを観ていると、いちどきに作品の全編が想起されてきて、さまざまな思いが心をよぎる。愛用の白い小さな双眼鏡でカロルが自分を覗いているのを見付けたドミニクが左手の薬指に指輪をはめる仕草を見せたとき、涙してしまう男の心の在り様は情けなくも切ない。冷たく自分を突き放した妻に、取り戻した自信の全てを賭けた罠を仕掛けておきながら、棺に涙する姿を見たために、計画を変更して会いに行ったり、性的不能になる以前においてもおそらくは共有したことがないであろうような総てが真っ白になるような交わりを共にしたために、計画を撤回しようとしたりするのは、よく解ることではあるけれども、そのために兄に頼んで雇ったという弁護士の言葉として伝えられる「暗いトンネルの先には光が待っている。」というようなことが、信じられるとはやはり思えない。信じたくなるということと信じられないということは、同時に独立して存在し得ることだと思う。死の儀式を経ることによって初めて得られる再生ということでは、ミコワイもカロルも同じく再生を果たすのだけれども、カロルはミコワイのように「晴れ晴れとした」心境にはなっていない。

 そしてまた、「青の愛」で主人公が手放さなかった青いビーズに替わるものがここでは2フラン白銅貨であるのも哀しく象徴的である。失った女の愛を取り戻すために男が必要としたのは、ドミニカの「あなたが死んだから」という言葉にもかかわらず、やはり莫大な遺産であり、真っ白くなるような性の交わりなのである。もちろん、そこで女が感じているものそのものは、金だけでもなければ、性感だけでもなく、愛にほかならないのだけれども、彼女にとって愛は、そのように測り得るものによって裏付けられなければ成立しないものなのである。男にとっての自信もまた同じく測り得るものに裏付けられることによって成立している。それらが測り得るもので裏付けられなければならないことは、止むなきことではあるのだとしても、より一般的に測りやすいものによるのではなく、その関係性における固有の価値に基づいているほうが、関係性のなかに価値観の創造が認められて美しいという気がする。そういう意味でも、キェシロフスキ独特の美学や哲学に満ちた作品というよりは、変に通俗的にリアリスティックな作品であった。しかし、三部作の第二部ということでキェシロフスキの意図もまさにそこにあったのだろうという気がする。
by ヤマ

'95. 6. 8. 県民文化ホール・グリーン



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