『ミンボーの女』
監督 伊丹十三


 やたらとアップ・ショットが多いのが何とも暑苦しく、陳腐でわざとらしいノリのギャグが目について作品の品格を落していると言わざるを得ない。しかし、だ。しかしながら、この作品は力を持っている。この映画を観ていると、伊丹監督は本当にヤクザが嫌いなんだなぁ、民事介入暴力に腹立てているんだなぁということが実によく伝わってくるのだ。ほとんどヤクザを挑発しているかのような不敵さが透けて見えるくらいだ。刺傷事件が起きたのも無理からぬことだと思う。そして、それが変に社会正義だの市民の義務だのといった説教臭さに繋るのではなくて、「僕ぁヤクザは嫌いだ、あいつらは人間の屑だ」という作り手の感情となって表出しているところがとてもいい。伊丹監督という人は、非常に理知的な人で、インパクトのある感情表出は、俳優時代の演技でも、監督となってからの作品でも、彼のウィークポイントの一つだったような気がする。役者の時分は、それがむしろ一つの個性として生きていたように思うが、映画監督となってからは、その弱点のために、妙に小手先の技巧を巡らせた小賢しさが目について作品の訴求力を損なっていたような気がする。この作品は、今までの作品よりもプロットやレトリックの点では、むしろ単調だが、ヤクザに対する伊丹監督の嫌悪感と軽蔑の眼差しが鮮明に表われる部分をどう受け取るかが評価の別れめじゃなかろうか。
 ヤクザやヤクザ世界をモチーフにした映画は、今まで星の数ほど撮られているが、ほとんどがそこにある種の美学なり、切実さを認めていて、彼らを真正面から否定した作品は、あまり例がない。この作品が先頃の暴力団新法との絡みでうまく時流に乗り過ぎていることや作品のベースにある公権力に対する手放しの信頼感には、いささか胡散臭さを覚えないでもないが、それでもこの作品のヤクザの描き方には快哉を送っていいのではなかろうか。弱気をくじき、強きにへつらうのは人の世の常であり、何も暴力団に限ったことではない。彼らが許し難いのは、伊丹監督が弁護士井上まひるの口を借りて言うように、彼らが暴力的威圧によって個人に決定的な屈辱を強いるからだ。その屈辱は、個人がそれまでの人生で育ててきたささやかな矜持と誇りを打ち砕き、その後の人生の卑屈さや忸怩たる惨めさを背負わせてしまう。そういう意味で決定的なのだ。「あんたはそんなに偉いのかよ。」という科白が暴力団員が凄む時に何度も繰り返して使われる。その使われ方には、特に伊丹監督の憤満が篭っているような気がする。

by ヤマ

'92. 6.17. 東宝2



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