『マカロニ』(Maccheroni)
監督 エット-レ・スコラ


 ラスト・シ−ンで鳴響く鐘の音を聞いて、多くの人は何を思うのであろう。アントニオが生き返ったと思わせるのが創り手の狙いであるのは明らかであるが、それが観客にどのように映るかがこの作品に対する評価の分かれ目になるところである。一旦死んだ人間が再び蘇生するというのは、極めて稀なことではあるが、実際に在り得ないことでもない。しかし、アントニオがロバートに語った過去の二度の蘇生の話というのは、本当のところ彼得意の作り話なのであろう。海辺でその話をした時、ロバートが余りにまともにその話を信じているようなので、アントニオは、むしろ面食らっていたような気がする。しかし、それ故に彼は、ロバートのことが芯から好きになったのだ。まるで違うような生き方をしてきた二人なのだが、根っこのところで本当に通じ合うものがあったのである。
 世界的な企業グループの次期社長を約束されていると目されるロバートからすれば、アントニオによって呼び覚まされるような感覚とともに得られたものは、自身の権力と名声を獲得する代償に染みついた慢性の頭痛や苛立ちと人生への虚しさから、再び生きる力の可能性を信じさせてくれるようなものだったに違いない。家族に去られ、友達の一人もいないと自認する彼にとって、人が人にとってそのような存在であり得るという事実は、とてつもない喜びと衝撃であったのだろう。彼がアントニオから、そういうものを次第に感じ取っていく過程をジャック・レモンは、なかなか上手く演じている。だからこそ、最後にロバートのとる行動が唐突には感じられない。観ている側は、そんな馬鹿なという違和感を覚えるどころか、充分ロバートに同化できるのである。
 一方、イタリアの一銀行のしがない文書係であるアントニオからすれば、世間の誰からも切れ者と言われ、つけ入ろうとする人間に対して驚くほどの過敏さで警戒を示していたロバートが次第に自分に心を開き始めると、心の通う喜びの掛替えのなさを味わうと同時に、ロバートがまるでそんなことが初めての恋する初な乙女子のように、蘇生体験などという突飛なことでも自分の言うことなら真に受けてしまうようになっているのを見て、少し面食らいながらも、それまでのロバートの人生の索漠さと心の抑圧とを感じ取るのである。だからこそ、息子のために彼にとってはどうしようもない大金を緊急に工面しなくてはならなくなった時、妻があの人に頼んでみればと言い、それがロバートにとってはなんとでもなる金額だと判かっているのに、「友情とは友達に迷惑を掛けたりしないことだ。」と言って、他の友人たちには借り回っても、ロバートに借りに行こうとはしない。ロバートに借金を申し込むことが金による迷惑ではなく、彼を傷つけ、失望させることを恐れたからである。友情におけるこういう凛凛しさは捨て難い輝きを持っている。表面的な饒舌さや剽軽さと大事なところでの秘めたる凛 凛しさと寡黙さとをマストロヤンニが見事に演じている。
 ラストの場面は、死んだ翌日の午後一時に僕は生き返ったのだというアントニオの話を信じたか、あるいは信じたいロバートの強い要望にアントニオの家族が合わせる形で、昼食を前にして手もつけずにじっと時計を見つめていたのであろう。アントニオの席には、ロバートが手にするまで椅子や皿さえ用意されていなかったし、過去にそういうことがあったのなら、アントニオの妻がしきりと涙を拭っているのも妙な話なのだから。そうして、横たわったアントニオの手から食堂にまで紐が延ばされ、鐘に繋がれているのである。それもロバートがしたことなのであろう。そこでカメラが天上へと引いていき、市街を眺望する位置にまで来たところで、次第に昂まりつつあったバックの音楽のなかで鐘が鳴響くのである。それは、アントニオの鐘なのか、あるいは移動するカメラをよぎった教会か何かの時報のような鐘なのか、あるいはまた、ロバートの心のなかの鐘なのか。映画は、ここで終わる。
 一歩間違えれば、過剰な思い入れによって何とも甘ったるく、白々しくなる物語なのだが、最早初老とも言える二人の男のそういった繋りに至る顛末やエピソードの運びの上手さと演技の巧みさがラスト・シーンを支えていて、余韻の残る作品となっている。人生とは、幾つになっても、その根本に関わるところでの大きくて新たな出会いというものが、本当にあり得るものなのであろうか。信じたい気にはさせられる作品である。
by ヤマ

'88.11.29. 高知にっかつ



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