『台風クラブ』
監督 相米 慎二


 ミドル・ティーンのあの年頃を台風のイメージで捉えるのは、確実に大人の側からの視点であるが、あの年頃を大人の側から捉えると、往々にして、憧憬もしくは批判といった価値判断を伴ったものに流れやすいのだが、この作品では、台風を災害とも天恵ともみない、只の自然現象とする基本的イメージ同様、少年少女たちに安易な価値賦与をしない、以上でも以下でもない形で描き出すことに成功している。それでいて、ここに描かれた少年少女の姿には、かなりの増幅が見られるが、価値賦与(+にも-にも)をしないで増幅し得たというところが、この作品のシャープさに繋っている。この増幅によって、彼らの姿は尋常ならざるものに見えるわけだが、その背後にある感覚は、非合理性にしろ、無目的性にしろ、独善性にしろ、エネルギーの過剰さにしろ、どれ一つとってもかつて自分も持っていたものであり、生活者として、日常性と常識という枠のなかに取り込まれて、いわゆる大人になっていくなかで失ってきたものばかりである。

 あの頃、大人たちからよく問われたのが、「何故そういうことをするのか」と「何故こうしないか」であり、大人たちの常に口にする「何故」に対面させられた時に、いつも困惑したことを思い出す。それは実のところ、「そうしたかったから」という理由にならぬ理由すら持たぬ行動であり、苦し紛れに「そうしたかったから」と答えるのは、大人の側の論理性という土俵に無理に上がって、何らかの理由を提示せざるを得ないからに過ぎない。それは、少年期の論理性の未熟さということで片付けられるべきことではない。少年期においても、一面では既に驚くべきほどの論理性を有しているものである。決定的なのは、少年期には、それとは別に、実に大きな非論理の世界を持っているということであり、それは大人たちが、時折自己欺瞞として叫ぶ「理屈じゃないんだ」という世界とは本質的に異なる少年期独自の世界なのである。そして、それを支えているのは、台風に匹敵するくらいの恐るべきエネルギーの過剰さであり、老化の第一歩として、その過剰さを失い、大人になっていくとともにそういった世界も失っていく。そして、「何故」に対する困惑や違和感も忘れてしまうのである。

 この作品に描かれた少年少女たちの姿は、増幅されてはいるが、本質的にはかなりの普遍性を持ったものである。性的なことに対する、思いの外に即物的でない部分や「個は種を超え得るか」といった観念性も含めて、むしろ今の現実の中学生以上に大人ずれしていない、普通の少年少女たちの姿に近い。それゆえ、その描き方の増幅の前に、彼らの姿に隔絶を覚えるとしたら、それだけ自分がいわゆる大人になっているということでもある。例えば、夜という時間が、ただ夜というだけで特別な意味を持っていたあの頃の感覚を忘れてしまえば、夜のプールに泳ぎに集まる姿は奇異に映るし、台風が近づいてくるというだけで何かわくわくした緊張感を持ったことや台風の最中の得体の知れない不安と昂揚感を忘れてしまえば、この作品、妙にわけが判からなくなる。そういった夜や台風の持っていた特別の意味は、忘れかけていたものを思い出したという風に受け取れるが、今はもう決して取り戻せないものである。かといって、格別取り戻したいとも思わない。善くも悪しくもなく、自分がそういう大人になっていることを思い知る。そして、彼らもまた、台風が取り返しのつかない爪跡(恭一のような)を残さねば、梅宮の言うように「十五年もすれば、俺のようになる」の言葉どおり、大人になっていくのであろう。皆人が、「恐るべき」子供から「只の」大人になっていくように。
by ヤマ

'86. 5.31. 高知東宝



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