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歌曲集『幽韻』(「小倉百人一首」より)  


曲: 山田耕筰 (Yamada Kousaku,1886-1965) 日本 日本語


1 花のいろは (Ono no Komachi)


花のいろはうつりにけりないたづらに わが身よにふるながめせしまに

美しかった桜の花は色褪せてしまいました。わたしも無為に時を過ごしているうち、長雨にうたれた花のようにかつての容色が衰えてしまいました。
2 忘らるる (Ukon)


忘らるる身をば思わず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな

忘れられてしまうわが身はかまいはしないのですが、誓いを破ったあなたが神罰で命を落としはしないかと心配しております。
3 あらざらむ (Izumi Shikibu)


あらざらむこの世のほかの想ひ出に 今ひとたびの逢ふよしもがな

この世を去るせめての思い出に、もう一度あなたにお逢いすることはかなわないのでしょうか
4 玉の緒よ (Shikishi Naishinnou)


玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよはりもぞする

わたしの命よ、終わるなら終わっておくれ、生き長らえればこの気持ちを隠す心が弱っていくでしょうから。
5 わが袖は (Nijyouin no Sanuki)


わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかはくまもなし

わたしの袖は潮の満ち引きに洗われる沖の岩のように、人に知られることもなく涙に濡れ続けているのです。

 小倉百人一首から女性歌人の歌ばかり五首を選んで作曲した歌曲集です。1919年、山田がカーネギーホールで開いたリサイタルで資金援助を受けたE.C.チャドボーンというシカゴの富豪夫人に感謝して捧げられたもので、第4曲まではニューヨークでわずか三日間のうちに作曲されています。しかしその内容は大変素晴らしく、当時の最新の音楽であるスクリャービンやドビュッシーの影響、また筝曲の要素まで取り入れられた芸術歌曲で、我が国の洋楽作曲家の草分けである山田の天才ぶりには舌を巻くばかりです。そしてまたその歌詞となった和歌の味わい深い魅力に改めて触れる機会が出来たのも収穫でした。

1.花のいろは(小野小町:おののこまち/九世紀後半)
 あまりにも有名な我が国の美女の代名詞小野小町の歌。容色の衰えを嘆く歌ですが、自らを花(桜)にたとえるあたり並々ならぬ自信が伺えますし、読むものにいやでも作者のいまだ衰えぬ美しさを想起させるという、なかなか一筋縄ではいかない、美人女流にしかなしえない歌です。「ふる」には「時を経る」「雨が降る」、「ながめ」には「眺め」「長雨」を掛けて二重の意味を持たせるなど技巧的にも優れているとされ、こんなに短い詩の中に込められた情報量の多さ、そしてそのような技巧を感じさせない流麗な美しさには感嘆するしかありません。

2.忘らるる(右近:うこん/10世紀初め頃)
 この歌を読むには、まず当時の人々の間では神罰が当たり前のように信じられていたことを心に留めて置くべきでしょう。「誓ひてし」は普通上記のように「人」にかかるとされており、白洲正子氏は『私の百人一首』で「せっぱつまった詠みぶりではなく、余裕を持って、相手の男をからかっているように見えなくもない」としています。一方吉原幸子氏は著書『百人一首』でそのような解釈を「いい子ぶりすぎてマユツバだ」と断じ、「忘らるる身をば思わず誓ひてし」は忘れられてしまうとも思わず誓ってしまった自分への悲しい自嘲とし、しかし裏切った相手を心配する気持ちも嘘ではないだろうとしています。そして彼女らしく「誓いというものは危険である。ある時期私自身も”誓わない決意”をした・・・」と書いています。あまりにも対照的な両者の解釈ですが、二氏の性格の違いが垣間見られて面白いです。吉原氏の真摯で情念的な解釈にも未練が残りますが、山田の曲調が曲集中やや明るめなので、ここでは白洲説をとることにしました。
 
3.あらざらむ(和泉式部:いずみしきぶ/976〜?)
 平安きっての恋多き女和泉式部の歌。『後拾遺集』所収で詞書は「心地例ならず侍りけるころ、人のものとにつかはしける」(具合が悪く臥せっていた時にある人のもとに届けさせた)。相手が誰かは不明とされています。白洲氏は式部について「常にあの世とこの世の中間にさまよう女であり、それが夢現(ゆめうつつ)の恋の陶酔と重なって妖しい雰囲気をかもし出す」と評し、吉原氏は式部のあでやかで繊細な歌につきまとう孤独の影を指摘しています。

4.玉の緒よ(式子内親王:しょくし[しきし]ないしんのう/1154〜1201)
 玉の緒とは魂を肉体につなぎとめる緒、つまり命のことです。和泉式部とは対照的に生涯独身で清らかに生きた式子内親王は、他人はもちろん当の相手にも知られることのない秘めた恋を詠った歌人でした。なかでも絶唱とされるのがこの作品で、その相手は藤原定家であるという伝説が生まれ、それをもとにした世阿弥作の能『定家』も残されています。吉原氏は式子内親王を「和泉式部とは反対の形でいわば負の情熱を謳い続けた”もう一人の天才女流詩人”」と評しています。平家追討を企て敗死した以仁王は兄、壇ノ浦に沈んだ幼い安徳天皇は彼女の甥でした。8歳から15歳まで賀茂神社の斎院(神に仕える未婚の皇女)を務め、病弱のためその後も独身を通し、兄の謀反に連座して40歳で出家しています。

5.わが袖は(二条院讃岐:にじょういんのさぬき/1141?〜1217?)
 山田が並べたのは偶然と思いますが、二条院讃岐の父、源三位頼政は以仁王とともに平家追討を企て敗死した人物です。白洲氏によれば『千載集』では詞書に「寄石恋(いしによするこい)といへる心をよめる」とあり、石を引き合いに出した恋の歌という題詠であったと思われます。風変わりで難しげな題を見事に詠っっていることから当時「沖の石の讃岐」と呼ばれるほど名高い作であったそうです。また吉原氏の本によれば、武将にして優れた歌人でもあった頼政には自らを石に喩えた歌「厭わるるわが水際には離れ石のかかる涙にゆるぎげぞなき」があり、讃岐の詠んだ「沖の石」は父親を暗示するものであるという説があるそうです。しかしこの歌曲の歌詞としては素直に悲恋の歌と読むべきでしょう。

 この歌曲集は意外にも録音に恵まれないようですが、関定子さんによる圧倒的な名唱があるのは幸せです。シュヴァルツコップを思わせるような水際立った巧さで難しい曲を美しく情緒豊かに聴かせてくれます。(「ソプラノによる山田耕筰歌曲集2」TROIKA TRK-103〜4)。http://www.keigado.co.jp/cd.seki.html 
他に伊藤京子、珍しいところでヘフリガーが高齢で録音した(日本語歌唱)CDがあります。

( 2005.09.10 甲斐貴也 )