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夜に詠める歌  


詩: 立原道造 (Tachihara Michizou,1914-1939) 日本

曲: 柴田南雄 (Shibata Minao,1916-1996) 日本 日本語


1 T


夜だ、すべてがやすんでゐる、ひとつのあかりの下に、湯沸しをうたはせてゐる炭火のほとりに――そのとき、不幸な「瞬間の追憶」すらが、かぎりない慰めである。耳のなかでながくつづく木精のやうに、心のなかで、おそろしいまでに結晶した「あの瞬間」が、しかし任意の「あの瞬間」が、ありありとかへつて来る。あのとき、むしろ憎しみにかがやいた大気のなかで、ひとつの歌のしらべが熱い涙に濡らされてゐた、そして限りない愛が、叫ぶやうに、呼んでゐた、感謝を、理解を。……私は身を横たへる。私は決意する、おそれとおどろきとをののきにみちた期待で――日常の、消えてゆく動作に、微笑に、身をささげよう、と。さようなら、危機にすらメエルヘンを強ひられた心! さやうなら、私よ、見知らない友よ!……私は、出発する。限りのある土地に、私は、すべての人のとほつた道を、いそがう。人はどれだけ土地がいるか。身を以て――。夜だ、すべてがやすんでゐる。やがて燈が消される。部屋がとほくから異つた装ひをして訪れる。私の身体はもう何も質問しない。恩寵も奇蹟も、ひそかなおしやべりもなしに。眠りと死とのにほひが、かすかに汚れたおもひをひろげはじめる。夢みる、愛する、そして旅する。それは幻想だらうか、さうであつてくれればいい、私が、鳥の翼と空気との間に張られた一枚のあの膜のやうに、不確かなやぶれやすい存在であるとは。誰が私に言ひ得ようか、物体は消え去ることがないといふ保証を――。それは嘗てメタフイジイクの幻滅だつた、ここを過ぎて、私はまた何をねがふのだらうか。私はしづかに死ぬ。そして死んでゐる。葦のやうになつた耳を立て、限りない愛に眼ざめる。すでにふたたび、裏切られもしないで、裏切りもしないで……。闇のなかでは、かすかな希望や物質が微妙な影をうすく光らせる。夜だ、すべてがやすんでゐる。さうだ、誰が眼ざめてゐよう、私もまた、もう眠られなくなつた星ばかり、外の空に溢れてゐるだらう! 見られずに、信じられずに――。ただ答へるのは、かくされた泉ばかりだらう。すべてがやすんでゐる。私もまた、夜だ。眠りにひたされて、遺された子守唄! そして、すべてが失われてゆくだらう、やすみながら。闇に、つくりもせずつくられもしない闇に。そして光に、かへつてゆくだらう。夜だ!…


2 U


光に耐へないで
ほろんで行つた 草木らが
どうして 美しい
ことがあらう

昼を私らの手にかへす
つめたいありあけの光のなかで
私が どうして
否定しよう


3 V


鳥よ 鳥らの唄を天にかへせ
花よ 花らの光を野にかへせ
――たたへられた 水に

夜が去る その最後の
影よ ちひさい波のさざめきを
のこせ! あこがれられた瞳に



若き日に抒情的な歌曲集「優しき歌」を書いている柴田が、同じ立原の詩を用いて1963年に発表したこの作品は、前衛技法(ミュージック・セリエル)を駆使して書かれており、とても前の歌曲集と同じ作曲家が書いたものとは思えないほどです。ソプラノ独唱にヴィブラフォン・ヴィオラ・クラリネットの伴奏がつくというまるでウェーベルンを思わせる編成。研ぎ澄まされた伴奏の響きは見事です。長大な散文詩は第1部で朗読され、そこに各楽器が絡みつきます。引き続いてのU・V部では立原の「反歌」とされるソネットが、前半の2節が第2部で、後半の2節が第3部に当てらています。ここでは12音の音列でソプラノが歌い、第2部ではヴィブラフォンが大活躍するゆったりとしたテンポ、第3部はもう少しダイナミックにテンポを揺らして演奏されています。NaxosでリリースされているNHK「現代の音楽」アーカイブシリーズの中で、この1963年初演の録音を聴くことができました。

( 2017.03.05 藤井宏行 )