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智恵子抄  


詩: 高村光太郎 (Takamura Koutarou,1883-1956) 日本

曲: 別宮貞雄 (Bekku Sadao,1922-2012) 日本 日本語


1 人に


いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに實のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない上自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――


2 深夜の雪


あたたかいガスだんろの火は
ほのかな音を立て
しめきつた書斎の電燈は
しづかに、やや疲れ気味の二人を照す
宵からの曇り空が雪にかはり
さつき牕(まど)から見れば
もう一面に白かつたが
ただ音もなく降りつもる雪の重さを
地上と屋根と二人のこころとに感じ
むしろ楽しみを包んで軟いその重さに
世界は息をひそめて子供心の眼をみはる
「これみや、もうこんなに積つたぜ《
と、にじんだ声が遠くに聞え
やがてぽんぽんと下駄の歯をはたく音
あとはだんまりの夜も十一時となれば
話の種さへ切れ
紅茶もものうく
ただ二人手をとつて
声の無い此の世の中の深い心に耳を傾け
流れわたる時間の姿をみつめ
ほんのり汗ばんだ顔は安らかさに満ちて
ありとある人の感情をも容易(たやす)くうけいれようとする
又ぽんぽんぽんとはたく音の後から
車らしい何かの響き――
「ああ、御覧なさい、あの雪《
と、私が言へば
答へる人は忽ち童話の中に生きはじめ
かすかに口を開いて
雪をよろこぶ
雪も深夜をよろこんで
數限りもなく降りつもる
あたたかい雪
しんしんと身に迫つて重たい雪が――


3 僕等


僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに盡きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌としたはじめにかへる
すべての差別見は僕等の間に價値を失ふ
僕等にとつては凡てが絶尊だ
そこには世にいふ男女の戦がない
信仰と敬虔と恋愛と自由とがある
そして大変な力と権威とがある
人間の一端と他端との融合だ
僕は丁度自然を信じ切る心安さで
僕等のいのちを信じてゐる
そして世間といふものを蹂躪してゐる
頑固な俗情に打ち勝つてゐる
二人ははるかに其処をのり超えてゐる


4 晩餐


暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
ぬれ鼠になつて
買つた米が一升
二十四銭五厘だ
くさやの干ものを五枚
澤庵(たくあん)を一本
生姜の赤漬
玉子は鳥屋(とや)から
海苔は鋼鐵をうちのべたやうな奴
薩摩あげ
かつをの鹽辛

湯をたぎらして
餓鬼道のやうに喰(くら)ふ我等の晩餐

ふきつのる嵐は
瓦にぶつけて
家鳴(やなり)震動のけたたましく
われらの食慾は頑健にすすみ
ものを喰らひて己(おの)が血となす本能の力に迫られ
やがて飽滿の恍惚に入れば
われら静かに手を取つて
心にかぎりなき喜を叫び
かつ祈る
日常の瑣事(さじ)にいのちあれ
生活のくまぐまに緻密(ちみつ)なる光彩あれ
われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ

われらの晩餐は
嵐よりも烈しい力を帯び
われらの食後の倦怠は
上思議な肉慾をめざましめて
豪雨の中に燃えあがる
われらの五體を讃嘆せしめる

まづしいわれらの晩餐はこれだ


5 あどけない話


智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
櫻若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。


6 人生遠視


足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる


7 千鳥と遊ぶ智恵子


人つ子ひとり居ない九十九里の砂濱の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無數の友だちが智恵子の吊をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて來る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
兩手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
兩手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商賣さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち盡す。


8 山麓の二人


二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡いて波うち
芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる途(みち)無き魂との別離
その上可抗の豫感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく觸れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。


9 レモン哀歌


そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう



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   Bekku Sadao 別宮貞雄

( 2012.02.18 藤井宏行 )