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盲目の秋  


詩: 中原中也 (Nakahara Chuuya,1907-1937) 日本

曲: 石桁真礼生 (Ishiketa Mareo,1916-1996) 日本 日本語


Ⅰ 風が立ち、浪が騒ぎ


風が立ち、浪が騒ぎ、 
  無限の前に腕を振る。

その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

もう永遠に帰らないことを思つて
  酷白(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう……

私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)へ、
  去りゆく女が最後にくれる笑(ゑま)ひのやうに、

厳(おごそ)かで、ゆたかで、それでゐて佗(わび)しく  
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

      あゝ、胸に残る……

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。


Ⅱ これがどうならうと


これがどうならうと、あれがどうならうと、
そんなことはどうでもいいのだ。

これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

人には自恃(じじ)があればよい!
その余はすべてなるまゝだ……

自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
ただそれだけが人の行ひを罪としない。

平気で、陽気で、藁束(わらたば)のやうにしむみりと、
朝霧を煮釜に填(つ)めて、跳起きられればよい!


Ⅲ 私の聖母(サンタ・マリヤ)


私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  とにかく私は血を吐いた!……
おまへが情けをうけてくれないので、
  とにかく私はまゐつてしまつた……

それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、
  それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
  おまへもわたしを愛してゐたのだが……

おゝ! 私の聖母(サンタ・マリヤ)!
  いまさらどうしやうもないことではあるが、
せめてこれだけ知るがいい──

ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
  そんなにたびたびあることでなく、
そしてこのことを知ることが、さう誰にでも許されてはゐないのだ。


Ⅳ せめて死の時には


せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披(ひら)いてくれるでせうか。
  その時は白粧(おしろい)をつけてゐてはいや、
  その時は白粧(おしろい)をつけてみてはいや。

ただ静かにその胸を破いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
  何にも考へてくれてはいや、
  たとへ私のために考へてくれるのでもいや。

ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいてゐて下さい。
──もしも涙がながれてきたら、

いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土(よみぢ)の径を昇りゆく。



中原中也の詩集「山羊の歌《の中にある4篇からなる「盲目の秋《、詩をお読み頂ければお分かりのようにかなり痛切な死と別れの歌です。
大正14年(1925)の11月、まだハイティーンだった中也をふたつの悲劇が襲います。ひとつはその前の年から同棲していた3歳年上の長谷川泰子が彼のもとを去り、小林秀雄のもとへ走ったという事件、そしてもうひとつは11月、親友で彼をフランス象徴詩の世界へと導いた富永太郎が24歳の若さで肺結核により病死したということ。このふたりを失ったショックがやがてこれらの詩へと結実したのです(「盲目の秋《発表は昭和5年)
この重たい詩に見事な曲をつけているのが石桁真礼生。激しいピアノの伴奏と、語りにも似た歌でとてもインパクトのある作品を作り上げました。バルトークの音楽を思わせる律動感が聴きものです。瀬山詠子さんの極めつけとも言える録音(Fontec)があります。
1974年の作品。演奏が難しいからでしょうか。残念ながら他にはほとんど取り上げられるのを見たことはありません。

( 2010.11.26 藤井宏行 )