貧しき信徒 |
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霧が ふる
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きりが ふる あさが しづもる きりがふる |
ひびく たましい
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かつぜんとして 秋がゆふぐれをひろげるころ たましいは 街を ひたはしりにはしりぬいて 西へ 西へと うちひびいてゆく |
風が鳴る
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死ねよと 鳴る 死ねよとなる 死んでゆかうとおもふ |
石
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うつむいて歩いてきたら 夕陽につつまれたひとつの小石がころがつてゐた |
きりすとを おもひたい
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いっぽんの木のように おもひたい ながれのように おもひたい |
天
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あたまのうへの みえる あれだ 神さまが おいでなさるなら あすこだ ほかにはゐない |
秋のひかり
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秋のひかりは地におちてひろがる このひかりのなかで遊ぼう |
邦人の作曲家に概して冷淡な日本のクラシック音楽ファンの間ではそれほど派手にもてはやされることはなかったようですけれども、戦後日本のクラシック音楽においては間違いなく重鎮のひとりとしてたいへんな足跡を残された松村禎三氏が先日79歳で死去されました。
映画や舞台の音楽をたくさん書かれている以外にはそれほど多作という人でもなかったようですが、代表作として挙げられているオペラ「沈黙《(遠藤周作の小説による)をはじめとして、声楽作品には重要なものがいくつもあります。
私はどちらかというと、その中でも以前ここでご紹介した日本古代の祝詞をイメージした「阿知女《やインドのリグ・ヴェーダをテキストとした合唱曲「暁の讃歌《といった若い頃のバーバリズムあふれるパワフルな作品の方にたいへん惹かれるものがあって、80年代後半に入ってからの緻密で重厚な音楽と精神性の深いテキスト(ちなみにこのオペラの台本は作曲者自身の手になるもののようです)のオペラ「沈黙《などは少々敬遠気味、というよりも国産のオペラ全体が苦手なのであまり深く聴き込むことはなかったのですが、今日はこのオペラと非常に関係の深い作品として1996年に書かれた歌曲集「貧しき信徒《を取り上げようと思います。
これは若くして亡くなったプロテスタントの詩人・八木重吉(1898-1927)の7編の詩につけられた歌曲です。八木重吉の詩は様々な作曲家に取り上げられてけっこうな数の歌曲になっていますが、この歌曲集の興味深いところはこの詩人の詩の中でも「神《や「魂《のことを語っている、ある意味西洋的な内容のものを歌曲にしていることです。オペラ「沈黙《が神と人間、そして信仰のあり方を深く問いかける内容ですが、実は作曲者がこのオペラに取り組んでいた1986~87年頃、この歌曲集でも取り上げられている「石《という詩に出会って感銘を受け、その後新しい歌を作る会より歌曲を委嘱された時にこの詩人の詩から7編を選び出し曲を付けたものです。作曲者はオペラを書く中でキリスト教へと帰依されたということもあり、詩をご覧頂ければお分かりのようにこの歌曲集はかなり宗教色が濃いです。
タイトルは詩人の2番目の詩集の題吊である「貧しき信徒《から取られていますが、実際の歌では1番目の詩集である「秋の瞳《などからも詩が選ばれていますが、とりわけそのいずれの詩集でもないところから選ばれた「きりすとを おもいたい《や切れ目なしに歌われるその次の「天というもの《(これは「貧しき信徒《より)などは鮮烈。私にはたいした感受性はありませんのでそこまでは思いませんでしたが、詩人の相澤啓三氏はこの歌曲集を収録したCDのライナーノーツに「ぼくは「きりすとをおもいたい《をはじめて聴いた際は「なんだこれは!《「勝手に思うがいい《と呆然とさせられた《と書かれているほどの激しい心の叫びが聴き手へと叩きつけられてきます。
これに限らず青空文庫などで八木重吉の詩をたくさんご覧頂いてから、この歌曲集への作曲者の詩の選択を見ると非常に興味深いです。
オペラ「沈黙《の初演でキリシタン弾圧下の日本で苦悩する主役の宣教師ロドリゴを歌ったテノールの田中誠氏による凄絶な歌がCamerataにある松村禎三作品選集Ⅳで聴けます。ピアノ伴奏の塚田佳男氏も万全のサポート。
( 2007.08.12 藤井宏行 )